「幸せにならない生き方、悩む生き方」 | small planet

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日々の散文。
もしくは 独り言。

近頃、めっきりと読書に明け暮れておりこの数日にてすでに三冊の書物を読破。

いったい自分は、本を何冊読みふけり、年間に換算すると幾らのお金をつぎ込んでいるのだろうか?と最近になり考えるようになった。

自分は我が家で『本の虫』と呼ばれている。

最近、心の全ての関心を「べてる」に寄せている。
かれこれ12年ほど前に、ふとしたことから彼らの存在を知ることになった私は、
ある日、NEWS23にて彼らの姿を目の当たりにした。 それはそれは深く感慨深く私の中にしみ込んだのは言うまでもないことであるが、その時も今も、私の心を捉えて離さないのは、
彼らが『病気』とともに『自分』を見つけて生き抜いている姿のずっと奥深くに温めている
豊かな感情のそのものにである。

生きずらい社会の中に自分の身を置いたとき、なぜに生きずらいと自分だけが感じ、馴染めず、
そんな自分が情けなくしょうもないい存在に感じるまた一方で、なぜに交わり、人に賛同し、協調性を持ちつつ慎ましやかに生きることが必要なのか??相反する思想に自分は長年の課題をかせてきた。それは、今もなお全てクリアにとはならない課題でもある。

自分は、『幸福』という概念には常にためらいを持ってして生きていいる。
実をいうと、何をもってして『幸福』と呼べるのかはいまだわからないのである。
もう少し具体化するなら、長期にわたる完全な幸福の状態というものがわからないのだ。
つまり、何をしていても、どんな状況であっても、『悩む』のだ。
その内容は大きいものから小さいものまで多岐にわたりバラエティーに富んでいる。
他人が素直に喜ぶような物事にも自分は悩む。
『果たして、自分はこれでいいのか?』と。
それは、人間関係においても例外ではないので、ちょっとした瞬間にその考え方が生まれる。
『疑念』が沸き起こるのだ。単に疑い深いといってしまえばそれまでであるが、いちいちそうなものだから『人』の間で疲れ果ててしまう。その結果、人を遠ざけてきたのだ。
しかし今では、その『人』の輪の中に難なく溶け込み、まじわらずとも何とか『人』と時間を共有することが可能になった。
そこには、長い年月があったのだが結局のところ『ないものを欲しがらず有るもので我慢』することを覚えたのであろうと思う。
つまり、『交われない自分を責めず、交われないまま生きることにした。』ということだ。

そして、そういう生き方を考え始めた時から他人の評価が少しずつ気にならなくなったのだ。
たぶんそれまでは、他人とどこか違って産れてしまった自分をどこかで責めていたのだろう。
「なぜ、違うのか?」と。
だから、交われない自分にレッテルを張り何とか交わろうとし果てもない思考の連鎖に陥った。
「できない自分・できる自分」。  その結果、私は外に出なくなった。
成長するうちに『社会の規則』をおぼえたが、どうしても産れてしまう『反骨』が無くならずに
何とか馴染もうとする自分に追い打ちをかけて覆いかぶさるものだからたまらない思春期であった。

『どうして自分がダメだというのだろう??』『それほどまでに自分がダメだというのか??』

それがいつもの私の困りごとだった。
そんな時に『べてる』の存在を知ったのだ。
『そのままでいい』それが如実に表れた世界観に私は魅了された。

悩みや想いを一人で消化しようとせずに、分かち合い心の解放に繋がる出口を見つけながら『問題』を新たな形に生まれ変わらせる。『悩み』を閉じ込めず解放し、生きるために『悩む』。
繰り返し、繰り返し、その行為を行う。『悩む』という行為そのものにかんしての視点が「べてる」の中では違っている。

そしてその過程で、人とも繋がっていく。

簡単に言うと、悩んで何ぼの世界観。

概ねの人は、『悩むことはよくないこと』と考えるのが常だろう。
『病気』は治すことが正しいと考えるだろう。
ではどうやって『治す』のがベストなのか?
「べてる」では、半分が『お医者さん』、半分は『自分』が受け持つのだ。
失礼ながら、どこか不完全な人たちは、不完全でありながら、彼らが『完全』と思う人たちよりも完全になれない自分についてを追及しながら生きている。
『病気』を傍らに置きつつ決してあきらめずに、人間の心の中にある『豊かな感情』と日々向かい合っている。
概ねの人が、気づかないようにしている感情と生身で向き合う彼らのある種の強さに魅かれた。

若かった私はなんとなく、お前もそのまま生きろ!!と誰かに言われたような気がしたものだ。

べてるの存在が、世間の人々にこのような形で影響を及ぼす結果になるまでには書物の中にもそれ以外にも様々な事象があった事だろう。

私は、悩むことの先にある可能性と、悩むこと、つまり『気にとめる』ことができる「気づき」という側面に気が付くようになり
齢をとるにつれ『幸せにならない生き方』を心から好むようになった。
何かに頭を悩ませ、考え込み、何かにダイブするように突き進む。その先に砕けるような思いや事象にぶち当たり、また悩む。
そうしていくうちに次第とそんな自分に『慣れて』くる。そして、一年前とは違う自分を見つける。
何かに容易に『納得』するよりも『偏屈』で交わらないことがあるほうがときに思いもよらない発見にみまわれる。

裏を返せば、『幸せにならない生き方』をしようとすればもれなく『幸せな人生』がついてくるのかもしれない。

恩師と会話をした際に『どうして、こんな思想が多くならないのか?』という問いについて話をした。
私は、そのことを一人で考えてみた。
たぶんそれはやはり『当たり前のことが難しい世の中』だからだろうと短絡的に考えたあと、次の考えに至る。
それは、その本人が本気で自分に向き合う覚悟がなければ結局は他人に、社会に依存しアイデンティティをないがしろにし
自分に対する責任を取らずに又はとれずに生きてしまう結果なのかもしれないということで、そのような人生に疑問を持たない者たちが多ければ
目の前にいる人たちに対しての『その人らしさ』など見つけられるわけもなく、世の中で次々と生まれる新しい考え方にまたもや依存するように飛びつき
上っ面をかじって自分も「なった気」になるがすぐに熱が醒めまた同じことを繰り返すのかもしれない。そう思うのであった。
結局は『目的』がどこにあるのかが重要なのかもしれない。

そんなことを日々一人で悶々と考えながらも、それでも自分は自分でありたいと私は思うのだった・・・。
そして年月が経ち、齢をとった今の自分であっても、「べてる」を知ったあの時代の感覚と何一つ変わっていないことに
自分という人間の素性をもう一度、再確認した想いでいっぱいになるのであった。