《若き日の記録・8》
7月9日(火) 曇りのち小雨のち晴れ
とにかく怒らないこと。叱らないこと。
森、井下が、ちょっとしたことでも苦情を言いにくる。しかし、私から見ればちょっとしたことでも、彼らにしたら重大事かも知れない。
どうも斉木、米谷は余分な行動が多い。
しかし、視点をかえると、川田や赤土、井下、田名瀬、梅宮と、それぞれ何かしら問題を抱えているし、西もいろいろである。
いろいろな出来事の中で、悪いところは治すが、悪い子、駄目な子を作らぬよう、よくよく心していかねばならない。
6時限、斉木が水を出して、まわりの子を濡らす。金田と原口にちょっかいを出す。
米谷と斉木を残して、「私は大好きな子は叱りたくないんだ。だから、米谷君も斉木君も叱りたくないんだ。でも人に迷惑をかける悪いことは叱らなくてはいけない。そうでないとこのクラスは、悪いことをやってもいいクラスになってしまう。私が叱らなくてもいいように協力しておくれ。」と話す。
「わかった」と。
☆「とにかく怒らないこと。叱らないこと。」
若き日の私は、こう書き記している。その訳は、書かれていない。
「何故?」そう聞いてみたい。どんな答えが返ってくるのだろうか。
「私から見ればちょっとしたことでも、彼らにしたら重大事かも知れない。」とは、いい視点である。
これを忘れてはいけない。人生経験も価値観も大人と子どもでは大きく違うのである。
それが誰の問題で、誰が困り、悩み苦しみ、そしてどうしたいのかが大切である。
「森、井下が、ちょっとしたことでも苦情を言いにくる。」
つまり、森と井下にとっての問題であり、担任の問題ではない。
担任としては、「二人に苦情を言われる」ことが問題であり、二人の苦情内容が問題ではない。
若き日の私には、アドラーのいう「課題の分離」ができていなかったことがわかる。
森と井下の課題であると認識していれば、「ちょっとしたこと」という表現にはならない。担任にとってはちょっとしたことであるが、森と井下にとっては「重要課題」なのである。
「どうも斉木、米谷は余分な行動が多い。
しかし、視点をかえると、川田や赤土、井下、田名瀬、梅宮と、それぞれ何かしら問題を抱えているし、西もいろいろである。」
子どもを一人前に育てることが教育の役割である。問題(課題)のない子どもなどいない。いるとしたら、担任にとって「都合がよい子どもか、都合の悪い子ども」の違いであろう。
「米谷と斉木を残して、『私は大好きな子は叱りたくないんだ。だから、米谷君も斉木君も叱りたくないんだ。でも人に迷惑をかける悪いことは叱らなくてはいけない。そうでないとこのクラスは、悪いことをやってもいいクラスになってしまう。私が叱らなくてもいいように協力しておくれ。』と話す。」
いいたいことはわかるが、どこかピントがずれている。
「叱りたくないんだ。」「叱りたくないんだ。」「叱らなくてはいけない。」「叱らなくてもいいように」と繰り返し「叱る」という言葉出てきている。
最後には「私が叱らなくてもいいように協力しておくれ。」と本末転倒なことを言っている。
ここから見えてくることは、「叱る」という言葉を脅し文句として使っていることである。「叱らなくてもいいように協力しておくれ。」と言っているが、子どもたちはそれができればとっくにそうしているのである。ところが、どうしたら叱られなくてもいい生活ができるのかわからないのである。
わからない子どもに、そのためにどうすればいいのか教えることもなく「協力しておくれ」という乱暴なあり方。
若かったとはいえ、今となっては反省あるばかりである。