「30年前のこの頃の子ども」

 この頃の子どもは、自分で考えて行動しなくなったという言葉をよく聞くけれど、はたしてそうだろうか。

 私はどちらかというと、先生を無視してでも自分で考えた行動をする子どもがふえてきたのではないかと感じる。

 今までは説明を加えなくとも当たり前だったことが、当たり前ではなくなってきているのではないだろうか。

 今までは無条件に子どもが従っていたことが、納得しなければ動かなくなってきていると感じるのである。

 そして、教師の側にある、「子どもが自分で考えて行動してほしい」という言葉の裏に隠れているものを認識しなくてはいけない。

 つまり、子どもが自分で考えた行動は、教師にとって都合のいい結果でなければいけないというものがあるということである。

 かつて(研究発表を通過点として取り組んできたから、それ以前をあえて“かつて”と呼びたい)の教育は、教師に都合よく子どもたちを飼い馴らした教育ではなかったかと思う。

 つまり、教師の意図するところを心得ていて、教師が何も言わなくても、子どもたちがそれを先取りして、動いたということではないだろうか。つまり判断の物差しが、教師の気持ちなのである。

 もちろんそれがいけないことではないし、そうした行動があって学級もまわっていく。しかし、それが自分で考えて行動していることだととらえることは、誤った認識ではないだろうか。

 とくに、担任の思いとちがう行動をとる子どもは、指示されるまで動かなくなる。

 なぜなら、叱られてやりなおしをさせられるからである。

 だったら、指示されるまで待ってから動いたほうがとくである。

 何がいけないのか。

 それは、教師がこどもの行動をみて、考えて動いているのか、考えていないのかを見抜く能力に欠けているということではないのだろうか。

 そして、何で判断するのかといえば、自分の思いにかなっているかどうかということなのである。

 そして、これまでは、「多くの決まり」や、「当たり前ということ」でこどもの行動パターンが、単純であったのが、次第にいろいろな枠組みが取れるうちに、いろいろな行動パターンが生まれだしてしまった。

 その結果、担任が、「こういうことは次にはこうなって当たり前だ」という予測がたちにくくなってきているということも言える。それも加わって、担任にとって好ましくない行動がふえた結果、この頃の子どもは自分で考えないというようなことが言われだしてしまったのではないだろうか。

 

☆これは今の子どもたちにも、今の教師にも当てはまると思う。

 新任教師は、教育のモデルを自分の担任だった教師に重ねていることが多い。学級経営のやり方や、子どもとのかかわり方など、自分にとっていい先生だった先生と重ねてそれをモデルにしてしまう。

 しかし、それはすでに10年前のやり方であり、時は過ぎている。必ずしも今の子どもたちには当てはまらない。

 それでは教育現場はというと、これまた時代に合わせて変化させているとは言いがたい。

 研究授業など当たり前にやっているが、それは誰のための授業かというと多くの場合「子どものため」とは言いがたい。

 自分の授業を他の教師に見せることで、自分を優秀に見せたいと内心思っている教師は少なくない。

 したがって、指導案なる物を作り、指導案通りの授業が進んでいく。

 子どもがどのような発言をして、授業が展開し、最後のまとめまでを正確に予測した授業が行われるわけである。

 実にあり得ない話である。

 生きた子どもを相手に授業をするなら、どのような展開になるのかそれは未知数である。にもかかわらず、たいていは指導案通りに進んで行くのである。

 何故こんなあり得ない授業ができるのか。

 それは教師が、その道筋になるように子どもを操作していくからである。

 30年前、「何で判断するのかといえば、自分の思いにかなっているかどうかということなのである。」と記述しているが、「教師が自分の思い通りにしたい」というあり方は、今も変わってはいないと言うことである。

 したがって、思い通りにならないことに対して、「怒り」を抱き、指導を誤ってしまう。

 しかし、自分の思い通りにしたい自分こそどれほどの人間なのかを振り返ってみる必要がある。

 子どもに算数や国語を教えられる程度の力しかないことを認識し、教師こそ、より人間らしくなっていく努力をしなくては、真の意味で子どものための教育は、できないだろう。

 道徳は、教師が教えるものではなく、子どもとともに学ぶものでなければいけない。