子どものための教育学

 

1 はじめに(大人編)

 

 子どもは、大人によって育てられています。

 

 当たり前のことです。

 

 しかし、はたして本当にそのあり方でよいのでしょうか。

 

 教育の父ペスタロッチが、その著書「隠者の夕暮」の中で

「二〇 生活の立脚点よ、人間の個人的使命よ、汝は自然の書で、汝のうちには自然といふこの賢明な指導者の力と秩序とが横たはつてゐる。そして人間陶冶のこの基礎の上に築かれてゐない學校陶冶はすべて指導を誤る。」

 

「二四 (前略)生ひ立つ人間のすべての力を、硬直した偏頗な学校教師の意見に従わせること、乃至は人間陶冶の根底に置かれる言葉の遣り取りと流行の教育法との幾千の小技巧、此等総ては骨折りながら而も人を導いて自然の道から外らせる。

のように述べています。

 

 しかし、これではあまりにも漠然としています。「自然という賢明な指導者」とはどういうことなのか、「此等総ては骨折りながら而も人を導いて自然の道から外らせる。」とはどういうことなのか、そして、子どもの人生経験からいったい何を学べたのでしょうか。

 

 ましてや、わたしたちは子どもの頃、自然の中で、何かねらいを持って遊んでいたわけではありません。これを授業に当てはめるなら、担任もなく、したがって教材研究もなされていない、どんな力を付けようといった目的もねらいもない、自然という教室で、なにか(間違いなく大切ななにか)を学んできたということです。

 

 ところが、現在の教育では、子どもの意思にかかわらず、子どもの教育は、大人によって決められています。それが間違っているか、正解かなど誰も責任を持つことなく教育のレールは、決まっているのです。

 

 ペスタロッチのいうところの「此等総ては骨折りながら而も人を導いて自然の道から外らせる」教育が現在の教育とは言えないでしょうか。

 

 子どもに選択肢はありません。

 これは子どもが大人に従属する存在であるということにつながります。

 

 ところが時代の流れは、違っています。

 子どもの権利条約を見たとき、「児童は、身体的及び精神的に未熟であるため、その出生の前後において、適当な法的保護を含む特別な保護及び世話を必要とする。」とあるように、大人に守られなければ生きていくことが困難であることはいうまでもありません。

 

 しかし、第12条にあるように

 

『第12条

1 締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべて 

 の事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、

 児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。

 

2 このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続

 において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当

 な団体を通じて聴取される機会を与えられる。』

 

の条文から考えられることは、自分の受ける教育に対して「自由に自己の意見を表明する権利」があるということになります。

 

 つまり「意見を表明するためにも、自分の受ける教育に対して知る権利」もあるということになるのです。

 

 そのために必要なことは、難解な教育学を唱えることではなく、子どもにも理解できる教育学を子どもたちに伝えていく必要があるということになります。

 

 医学を見ると、患者に対して、治療法を提案し、治療していきます。

 医学という特殊な専門的な分野でさえ、患者に説明があるのです。

 

 ところが教育においては、親に対しては、方針を説明する事があっても、子どもに対しては、説明が省かれ、きまりという形で、学校や教師から一方的に決められていきます。

 

 当事者である子どもは、どんな意図で、今自分がどのような意味の教育を受けているのか知らされることはありません。

 

 そこで、教師だけでなく、子どもも教育に対して学ぶことにより、よりよい教育を教師と子どもの共同作業として展開していけないものかと考え「子どものための教育学」を発表することになりました。