6月9日

中教審「審議のまとめ」について

 私なりに考えてみました。

 まず文を読むときに大切なことは、いったいそれがどのような人によって書かれたのかということです。それをしっかり見つめなければ、事実はわかっても、真実を見誤るということがあります。

 たとえば、映像というものを考えてみるとわかります。

 民衆が暴動を起こしたとします。それを警察等が、押さえようとしている場面があります。

 この時、カメラが、民衆の側から映像を映せば、棍棒を振り上げたり、民衆を突き倒したりしている警察の姿が映ることでしょう。それをテレビでみる人たちは、口をそろえてこういうでしょう。「なんとひどい警察だ」と。

 それでは、警察側から映像を映したらどうなるでしょうか。

 物凄い形相をした民衆が、悪口雑言。石を投げ警察につかみかかる場面が映し出されることでしょう。それをテレビでみる人たちは何というでしょうか。「あんなひどいことをしていちゃいけないな。これでは警察が出動しても当然だ。」でしょうか。

 しかし、どちらも事実なのです。                         にもかかわらず、カメラの角度によってまったく正反対の認識をさせてしまうのです。 真実が何かはこれだけではわからないのです。

 このカメラをペンに置き換えれば、どういう立場の人がどういう角度から書いているのかをしっかりと見つめていかなければ、文章は正しいように見えても、実は大切なことを見落としているということになりかねないといえます。

 前おきが長くなりましたが、そういった読み方をしたいと思います。

 まず、この「審議のまとめ」は、文部省の諮問機関である、第16期中央教育審議会の公表したものだということです。ということは、文部省の立場からの角度であるといえます。

 そう考えたとき、はじめの「今後の我が国は」というところが問題です。

 今後のことから始まっているのです。今まではどうだったのか、その上に立って、今後と進むのであれば納得はいくのですが、いきなり「今後」では、誰も納得しないのではないでしょうか。もしこれで納得がいくというのであればその理由を聞きたいものですが。 ともあれ、いきなり「今後」と始まっているために、次に続く「個性が尊重される真に豊かな成熟社会の実現をめざすことが必要で、そのために教育改革が求められる。」の説得力に欠け、それらしい言葉が並んでいるだけではないのだろうかとさえ思えてしまいます。

 このように書くと、ただ文章にけちを付けているだけの無責任な書き方になってしまいますので、ここで今までのことを調べ、私の考えの根拠としていきたいと思います。

 戦後の日本では、青少年の非行が、社会的に大きな問題となっていました。そして、1951年(昭和26年)をピークに、いったんは減少傾向にありましたが、55年(同30年)からは再び上昇していました。

 そして、61年(同36年)には、警察に検挙された少年は、1年間に、実に約95万人に上り、深刻な事態を迎えていたのです。

 このころから、青少年の非行が激増し、その特徴として、非行の低年齢層化、中流家庭の子どもによる犯罪の増加、非行の集団化などが指摘されていました。

 それまでは、非行の背景には貧困があり、青少年の犯罪の多くは、貧しさによることが多かったのです。

 しかし、日本の社会は、すでに高度経済成長時代にはいり、人々の生活は年々豊かになってきているにもかかわらず、子どもの非行は急増していました。

 当時、政府は折りあるごとに“人づくり”を唱えていましたが、1962年(同37年)の11月に文部省が発表した教育白書『日本の成長と教育』を見ますと、いかなる人間をつくろうとしていたかが、よく表れています。

 この白書は、教育を投資という観点からとらえ、教育は「経済の成長に寄与する」有効な投資であることが強調されていました。

 白書では、これは一つの試論にすぎず、「将来の社会に生活する人間像を目指し、広い観点に立って教育の使命を考えることこそ必要」であるとしていましたが、その人間像についても、教育の使命についても、何も触れられていませんでした。

 それは、試論とはいえ、すべてに経済効率を優先させようとする、本末転倒した、悲しい日本の姿が露呈されていたといえるのではないでしょうか。

 「何のための教育か」「何のために学ぶのか」との根本の目的を問わず、ただ国家の経済成長に貢献する人材を輩出すればよい。これが日本の教育の実態だったといえます。

 哲人ソクラテスは、ただ生きるのではなく、“善く生きる”ことの大切さを訴えていますが、経済至上主義で進む日本社会は、そうした人生の根本問題を遠ざけ、耳を傾けようともしなかったのです。

 ここに、繁栄の陰で見失われてきた、戦後日本の最大の“歪み”があったといえます。 戦前の日本では、“国家の役に立つ”人間をつくることが、教育の至上命令でした。

 また、戦後は民主教育が推進されはしましたが、結果的には、教育白書が図らずも露呈したように、“国家の経済発展に貢献する”人間をつくることが、主な目的になってしまったのではないでしょうか。

 つまり、看板は代わっても、本質は“国家の役に立つ”人間の育成なのです。教育を国家の繁栄の手段としてのみ考えることは、国民を手段化することと同義であるといってよいでしょう。

 そこには、子どもにとって教育とは何かという視点が欠落しています。

 そうした時代の流れの結果が今です。

 どうでしょうか。他の国と比べれば、はるかに国全体として、文部省の指導のもとに進めてきた教育結果は。

 まさか、いいところもあれば悪いところもあるから、評価するべきところは評価して、なおすべき所をこれからなおしましょうなどと、現状を肯定するのでしょうか。たしかにそうしたとらえ方が現在まで当たり前のようにされていました。しかし、その積み重ねが今なのです。

 わたしは、親も子どもも教師も含めて、今ほど教育が荒廃している時代はないと考えます。ここで具体例をあげるまでもないでしょう。

 そして、それは文部省の指導のもとに進められてきた結果だということです。

 そういった意味において、「今後」からはじめるのではなく、これまでの反省にたった上で、「今後」を論じていくべきではないのでしょうか。

 これまでの責任を明らかにするべきです。それをウヤムヤにしたまま、次にウヤムヤな「まとめ」を出したところで、何も変わらないばかりか、さらに悪化していかないだろうかと危惧されます。

 「教育改革」をしなくてはいけない事態を招いたのは誰の責任か。ここで責任を問われないから次に携わる人も無責任に終ってしまうのではないでしょうか。

 こういうと、「責任を追及したところで、それは意味のないことで、むしろこれからどうするべきかが大切だ」といわれる方がいますが、責任をはっきりさせないことによって無責任が続いていくのであれば、やはり責任の所在をはっきりさせるべきではないでしょうか。

 そう見たとき、「転換が不可欠」と述べられている“同質志向や横並び意識、過度に年齢にとらわれた価値観”を生み出した源流が見えてくるのではないでしょうか。

 また、個性尊重ということがいかなることなのか、真に豊かな成熟社会とはどんなものなのか、何も触れられていないに等しいといえます。

 さらに、これからの教育について、「ゆとり」の中で「生きる力」を育むことを目指しとありますが、なぜそうなのか、についてもまた触れられていません。

 また、問題なのは、「これまでの我が国の教育は大きな成果をあげてきたが」の部分です。ここでいう大きな成果とはいったい何なのでしょうか。それは、初めに述べましたように、これまでの日本の教育の流れからすると、「経済の成長に寄与する」投資、としての成果ということになるのでしょうか。

 もしこれを成果だとすると、これからの教育もまた、“国家の役に立つ人間の育成”という方向性は変わらないわけです。子どもの幸福や、個人の幸福は、国家の利益のために後回しにされる教育だと言い換えることもできるでしょう。

 現実に、沖縄の基地の問題などは、国家の利益のために、個人の幸福がふみにじられた出来事であると私はとらえています。理屈で、仕方がないと他人事のように考えている人も多いようですが、単純に、こう考えてみればいいのです。「もしも、国のためだといって突然法改正がなされ、今自分の持っているすべての財産を取り上げられたとしたら、それであなたは納得できますか」、ということです。

 さらに、これまでは「教育システムを画一的に構築したり、硬直的に運用したりする傾向があった。」とありますが、これは文部省の方針が「画一的に構築させたり、硬直的に運用させたりする」ものであったのではないでしょうか。他国と比べればそれほど“文部省の拘束力は強い”ものがあったのではないかと思うのは私だけでしょうか。もし、この点について「そんなこと(拘束力)はない」といわれる方がいるとすれば、その人は公教育の立場から教育をしてきていないということを暴露するようなものです。

 このように考えると、自然にそういった(画一的な構築と、硬直的な運用の)流れができてきたというのではなく、文部省の指導に基づいた、人為的なものであるといえるのです。この文章を読むかぎり、その責任は、教育現場であります。

 たしかに、主語は、「我が国の教育」です。「我が国の教育は、大きな成果をあげ、~の傾向があった。」となってはいますが、私の知るかぎりでは、「教育システムを画一的に構築しなさい」とも「硬直的に運用しなさい」とも指示されていないと思います。つまり、「我が国の教育は、大きな成果をあげたけれど、しかし、教育現場では、教育システムを画一的に構築したり、硬直的に運用したりする傾向があった」と読めるのではないでしょうか。

 「悪い責任は、教育現場だよ」ということです。手柄は私(文部省)、責任はお前(教育現場)の構図です。 そして、最後に引っ掛かるのは、「優れた才能を持った子ども」と「じっくり学んでいく子ども」と、いぜんとして差別をしていることです。

 ここでいう「優れた才能」とはどんなことでしょうか。また、「じっくり学ぶ」とは、どういうことでしょうか。

 なぜ私が、差別と呼ぶのか。それは、“充実と配慮”という言葉が象徴しています。

 なぜ「じっくり学んでいく子どもたちの学習の充実」と表現しなかったのでしょうか。 これは明らかに、これからの教育の中心もまた「優れた才能を持った子ども」であるとの主張であります。「じっくり学んでいく子」は、あくまでも脇役的な存在で、配慮をするにとどまるのです。

 このように、私は、すべての子どものための教師であるという立場から、この「審議のまとめ」を読んだとき、憤りに近いものを感じました。

 私たちが一番大切にしなくてはいけないことは、悩み苦しんでいる子どもを救うことではないでしょうか。優等生を、さらに優等生にすることではなく、劣等生を優等生にすることです。問題児を優良児にすることです。私はそう考えていますし、それが私の信念です。

 教育に犠牲があってはならないと思います。

 これまでの教育は、明らかに、優等生をつくるために、劣等生が切り捨てられてきました。劣等生は国家繁栄のための犠牲となってきたといえます。国家の役に立つ人間を充実させ、劣等生の幸福は考えられてきていないのです。                  

 むしろ、劣等生、問題児は責められる対象でしかなかったのです。

 それが、この“充実と配慮”という言葉に象徴されているといえます。

 それは言いすぎだという方もいらっしゃるでしょう。そういう方には、私が「いじめに関する考察・4」で、述べたところの、「ライ病」の問題はどうでしょうかと、問いたいと思います。これはほんの一例ですが、たしかに日本は一部の人を犠牲にしながら、経済至上主義、国家の発展第一主義で進んできているのです。個人の幸福は後回しなのです。 だから、日本で始まった悪しき習慣である「バレンタインデー(人の真心より利益優先)」が盛んなのです。

 以上述べたことから、唐突ですが、私たちが目指すべきは「人に尽くす」教育ではないかということです。

 “一人一人”であったり、“個性”という言葉からは、人間関係が見えてきません。教育が人との関わりの中で成り立っているという視点が欠落しています。それ故にしらずしらずのうちに差別ということも起きてきます。

 このまとめを読むかぎり、とても経験や専門の知識を持った人によって作られた文章には思えません。

 先日の、道徳主任者会でも、この「審議のまとめ」のことが話題にされていましたが、私が気になることは、こういった文章を無条件に受け入れすぎていることです。

 私は、以上のように否定的に見ています。私なりに、その根拠となる事実を示し、それが本当はどういうものであるのか、考えるようにしています。それは私たち教育者の責任であると思うのです。

 自分で納得のうえに教育を進めていくとき、自分の責任のうえに、その結果を見つめることができるからです。

 今の多数の人のように、無条件に受け入れていたとしたら、それが仮に間違っていたとしても、自分の責任とは思えないでしょう。「私は文部省のいったとおりにやってきたんだから私のせいではない」と、自分を正当化することにつながるのではないでしょうか。 そのもっとも顕著な例が戦時中の教育です。教師が子どもを戦場に送り込んだのです。それを自分の責任と感じた教師はどれほどいたでしょうか。後悔した教師はいたと思います。しかし、これで本当にいいのかと、問い掛けずに教育を進めてきた結果が、悲惨な結果を招いたのだと、果たして自覚したでしょうか。もしも、この歴史の教訓から学んでいるとしたら、こういった「審議のまとめ」について、果たしてこれでいいのだろうかと、問い掛け、自分の納得のうえに、賛成なり反対なり示すべきではないかと考えるのです

 

☆この記述から30年が過ぎました。

 振り返ってみれば、「子どもの幸福や、個人の幸福は、国家の利益のために後回しにされる教育」が、続いてきたと思います。

 当時は、青少年の非行問題、荒れた学校、校内暴力などが問題となっていました。ある意味、集団から外れてしまった特別な子どもたちが問題でした。

 ところが、今ではいじめや不登校という問題へと変わってきています。

 30年前なら普通だった子どもたちがいじめや不登校になっているのです。

 いま、タブレットを使ったICT教育が国家レベルで進められています。

 ICT教育先進国が、何カ国も紙媒体に戻しアナログを見直し始めているときにです。

 文字を書かず、画面をタッチして、考える間もなく、答えが出される、そんな教育の先に待っているものは何なのでしょうか。

 効率ばかり優先させている日本の国のあり方を見つめ直していくべきだと思います。

 「無駄なことの中に実は大切なことがある。効率的に生きようと思うなら、生まれてすぐに死ぬことだ。それが最も効率がいい。」という話を聞いたことがあります。

 たしかに、生きるということは必ず無駄なことを伴います。無駄がいけないものであり、無駄を省き効率よく生きることを考えれば、生まれてからすぐ死ねば無駄はなくなるということは理解できます。

 しかし、それでは生まれてきた意味がありません。

 いかに無駄をなくすのかではなく、いかに無駄だと思えることを、時間を楽しむことができるか、そこにこそ生きる意味があるのではないでしょうか。

 すると、今の日本の教育は、真逆な教育になっているようです。