2024/04/07 | I'm Just Me*.+゚

I'm Just Me*.+゚

お喋りしたり手を繋いだり゚・*:.。今夜夢で逢えたら嬉しすぎて泣いてしまうかも.。.:*・゜



この2016年の夏に
母とおじとおばとランチ食べたとき

うちのおば、母、おじは
本当に今の時代、珍しく仲がいい3姉弟
みんな奄美大島出身

この黄色の服が母にすっごく似合っていて。
とっても母らしくて可愛いかったの


すごいかわいい、似合うね!って褒めた気がする

なんとなくだけど
これを撮った日
当時母はまだめちゃくちゃ元気だったけど
縁起でもないけど
この写真、最期に使いたいな、って思った

それから8年

4/7の12:40に母が亡くなりました

肌荒れなんかしたことなくて
なんでそんなに肌きれいなの?って
いつも羨ましかった
全身がもちもち肌のお母さん
可哀想に、、可哀想に、、

3月下旬に変えた抗生剤の影響で
アレルギー反応を起こし全身がただれて
火傷したみたいに水ぶくれがやぶれて
ひどい苦しみの中で
皮膚を守るために手足も包帯ぐるぐるで
皮膚から液が漏れないよう
マット敷かれて寝かされて
それで闘病した2週間でした
どれほど痛かったか、痒みもあっただろう

『中毒性表皮壊死症』っていうのが死因
それに伴って多臓器不全も起こしてた

スキズの大阪ファンミ行ってたら
絶対後悔してたから
行かなくて本当によかった

薬を変えなければ、とか
もっと早く転院してれば、とか
きりがないから考えないようにしてる
その時その時で最善の決断してきたもん

最期に会ったのは前日の4/6の夕方

明日もまた来るからね!と話しかけたら
頷いてくれたけど
目がおかしかった、なんか弱々しくて。。

市内の大学病院には
私の今住んでるとこから高速では1時間かかる

大学病院は私の地元にある
20〜23歳のとき
実家から歩いて大学病院で秘書してたから
元職場でもある
この地域に30年住んでたから
最期この土地に戻って、というのも
なんだか不思議
20歳の私は母がここで最期を迎えるなんて
思ってもなかったな


死に目には会えなかった
急変して2回電話もらって、
出発の準備しているときに
もう心肺停止しました、と。

虫の知らせはなかった
私とお母さんの仲だから
何か合図くれるだろう、なにか不思議なことが
起こると信じてたから
少しがっかりしたよ……

その日(日曜日)は
夜勤あけの夫をひとまず寝かせて、
午後には面会に行こうと思ってた
私も眠くて寝たかったけど
なんかすごく背中の左側が痛くて
寝られなくて起きたんだ

そしたら電話が来て、って感じで。

病室に入る前にナースステーションで
熱を測って面会用紙を書くんだけど
私は喉が痛くて咳もひどくて
熱が37.4あった

あやうく母が亡くなったのに部屋にも
入れないところでした

通夜と告別式も咳めちゃくちゃしながら
熱あったけど来客対応もやり遂げた

喪主する日がこんなに早いとは。

結婚しててよかった、て
初めてちゃんと思ったかもしれない
義両親、義姉家族が手伝ってくれたし
何より夫が色々とやってくれて
私はとことん悲しんで、お母さんのそばに
いれるようにしてくれた

世間の入学式に日にちかぶってて
私の親戚も来るのが難しかったりしたけど
なんとか集まってくれてね

私の友達にも愛された母だったから
友達に連絡をするか、悩んだ
最期の姿があまりにひどい為
会わせるべきか、、

コロナ禍で5年位は私の友人は
母に会ってないし
昔より30キロくらいだいぶ痩せたし
元気な時のイメージと違いすぎて
皆びっくりしてしまうかも、、と。

だけど小学校〜短大までの友人は
私のお母さんが大好きで可愛い、面白いって
慕ってくれてたし
人に会うのが好きな
おしゃべりな母だったから
たくさんの人に送られたいかも、と思い直した
連絡したらお線香あげさせて、と
30人くらい来てくれた😭
12月にやめた元職場の子たちも
県外で来れない子も香典まとめて
持ってきてくれて。

地域の人にも有名なお母さんだったから
話したら絶対にもっと
来たと思うんだけど、会場も小さな
家族葬にしたし
交友関係が広すぎて連絡取るのを断念

友達と思い出話したり写真見て懐かしんだり
料理が好きな母だったので
あのお弁当の具がすごったよね、とか
うちにお泊まりしたときに食べたあれが
美味しかったとか大きいおにぎりの話とか。

お母さんは朝5時くらいから毎朝
お弁当作ってくれる人で
冷凍食品一切なし
とにかく量たくさんいつも作りすぎってくらい
作る 
私を一人で育てながら、途中までは
認知症の祖母も同居していたから
祖母の介護もしながら働いてた
頭も良くて世話焼きで人のために生きてた
本当にすごい人だったと思う

本当に私を愛情いっぱい育ててくれた
お母さん、
皆が私よりすごくお弁当のこと覚えててくれたよ
あと昔の写真見て、おしゃれだ〜って
皆言ってたよ
私が遺伝でセンス引き継いでるってさ


私は今も毎日泣いていて
メンタルが不安定
アメブロに書いてしまったら本当に
起きたことなんだ、って
実感してしまうから書けないでいた


おちょこは亡くなる前に回してた


パジャマパーティーズのダンスが
今お気に入りで踊ったりするし
インスタも開けるようになったし
テレビもつけて漫画も読んでる
できるだけ日常もこなせてるんだ

ふと最期に、
棺によく着ていた服と
帽子をかぶせて花を入れるシーンが
フラッシュバックして辛くなる
 
遺影に話しかけたり
じーっと何もせずにいると
突然悲しみに襲われて
涙が止まらなくて。

母は私がとにかく『全て』の人だったから
最期の2週間は本当に私とまだ生きたくて
私のこの先をまだ見ていたい、って
強い気持ちだったと思う

あと全身痛くて苦しいよって
怒っていたかも、恨んでいたかも
文句を言いたかったのかもしれない

ずっと何か言いたそうだったけど
呼吸するのもやっとで結局わからずじまい

大好きな歌も歌えずに、きれいな高めの
よくとおる声ももう聞けなかった

まだ元気な時から口癖のように
最後は私の腕の中で死にたいわと
言っていたんだけど
そのときは何言ってんの!
まだ元気じゃん!と
取り合わなかった。
こんなに早いとは思っていなくて。

その願いは叶えてあげられなかった

全身の皮膚状態がひどすぎて
ハグしたら痛いから
抱きしめることができなかった



これは、この気持ちは、
亡くした人じゃないと
永遠にわからない悲しさ、寂しさ

皆が寄り添ってくれるのを有り難いと
思いながらも
あなた達にはわからないでしょ!とも
思ってしまう
孤独感、疎外感がある

命の重さを比べるわけじゃないけど
母の死って本当に乗り越えられない

何年かかるんだろうな、、、


とりあえずここまで記録として書いておく。



寝ているお母さんに見せたくて、
そうだ桜を撮ろうと。

義務的に撮った桜



今年はぜんぜん桜が満開だったことに
気づく余裕がなかった
花見もしたくなかった
これから毎年桜を見るのが悲しくなるなぁ


グリーフケアの本を何冊か買おうと思う
機会があればメンタルクリニックとか、
カウンセリングも通いたい