「新しい時代」に入っても、戦国軍師の知恵と気構えは活かせるか?…不安に思う今こそ読みたい1冊
戦国時代は「実力本位の時代」と思われていますが、果たして100%そうだったのでしょうか?
実は、加持祈祷や占卜など「非科学的」な側面も重要視されていた時代だったようです。
現代においても、勝負事に関係する人々の間では、迷信とかジンクスを気にする人が多いですが、これは勝負事にはかなりメンタルな部分も入り込んでいる証拠だと言えます。
勝負は紙一重であり、単なる実力だけでは勝敗が決まるものではないことを、優れた武将たちは知っていたのですね。
今回は、加持祈祷や占卜などメンタルな部分も含めた作戦を立案し戦国武将の参謀として仕えた軍師について取り上げた本をご紹介したいと思います。
(p.4、29、144、184、254、257)
戦国大名家におけるナンバー2(補佐・参謀役)の役割分担
・家中統制と領国経営(宿老、家老、老臣)
・合戦(軍師…カリスマ性な側面がある一方で、通常はあまりスポットライトが当たらない地味な存在)
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具体的な軍師の仕事とは?
・陰陽師、占師、祈禱師、修験者(予知、状況判断能力→今でも相撲に残る「軍配」とは、本来は星占いに使うための道具)
・戦場の天気予測(天気予報の無い時代、雲の動きで判断)
・外交官、全権大使(軍使)…勧降工作による同盟切り崩し、講和交渉などと、権力の「境目」に居る武将家の場合、どちらに味方するかを情報収集の上、的確に判断(「中立」は許されない)
・築城(鍬立て、地鎮祭)
・策略家(豊臣家滅亡に追い込む大阪冬の陣と夏の陣の契機になった「方広寺鐘銘事件」のシナリオは、家康の参謀だった僧侶の天海が書き、重臣の本多正純が実行?)
・鬼門(北東)へ寺院の建立による鎮護
(p.30)
軍師が仕切る「勝鬨(かちどき)」は、かつて「えいえい」「おう!」だけの単純なものではなかった
・戦いの勝ち方や、戦いの終わった時間、味方の犠牲の多少によって多様なバリエーション
・首実検(怨霊の祟りを避ける)のが目的
(p.79、189)
軍師の身分が「出家」した僧侶(法体)が有利である理由
・出家=俗世間(俗界)から縁を切った「無縁」の状態
・出家していない(無縁でない)者が、敵対する相手の領内に交渉の為に進入すると殺されてしまうことが多い
・法体となっている僧侶は、敵も味方も「無縁」ということ命の安全は保障され、自由に敵国にも行き来できる
・敵方も、使僧だけは陣営内に快く迎え入れる習慣があった(よく考えれば、大名家に抱えられた僧侶が「無縁」な訳が無いが、当時、そのあたりの矛盾は目を瞑っていたようだ)
(p.152)
「兄の道・弟の道」…家庭内 “兵農分離”
・兄が武士として大名家へ仕官(専業武士化に失敗しても、家に土豪として戻れるかも?)
・弟は家に農民として残る(兄が出世したら、家臣第1号として武家に呼ぶことも可能)
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兵農分離への過渡期におけるパターン
(p.184)
大将や軍師が戦死したとか負傷したというニュースは、戦局全体を左右する大きな出来事
・歴史が我々に教えている1つの教訓(現在の企業においても同じでは?)
・軍師は局部に力を注ぐべきではなく、全体を見渡せる位置に居て大所高所から戦局全体に指令できなければ、軍師としての役割を全うできない
(p.220)
今日の日光の繁栄は、天海の功績によるところが大?
・家康の遺言「1周忌が済んだら日光山に小堂を建立し、我が霊を勧請すべし」を拡大解釈し、元和3(1617)年4月に家康の遺骸を久能山から日光山へ改葬
(p.224)
家康の最高軍師・本多正信
・家康は、たとえ敵対した人間であっても役に立つとみれば帰参させ、抜擢もした
・諮問された事柄に対し、即答できるだけのデータを常にインプット
(「そうですネー、何が良いでしょうか?」と、大将と同じように考え込んでしまっては軍師の用をなさない)
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「たぬき寝入り」は、妥協をしない正信の策
・会議の時に眠ったふりをして、いい意見が出たとき急に起きて賛成発言をする
・逆に、家康の発言であれ、自分よりも石高の大きい徳川四天王の発言であれ、気に入らない意見の時には眠ったふりをする
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「権ある者は禄少なく、禄ある者は権少なく」
・幕藩体制という秩序を維持する基本理念
※「権と禄をあわせもっては、同僚の妬みを買い、ろくなことはない」
・武功派の武将たちの軋轢(社長側近の人間=吏僚派と、現場の人間=武功派との感情的な対立)への配慮
※家康における人心コントロールの巧さ(武功派の本多忠勝や榊原康政は10万石に対し、側近の「相談役」に徹した本多正信にはたった1万石)
(p.236)
「遅咲き」正信の子、本多正純
・36歳でデビュー(人間の才能発掘などというものは何が契機になるかわからない)→豊臣家を滅亡へと導いた軍師
・方広寺鐘銘事件にも、天海とともにキーパーソンとして関与
・常識から外れた拡大解釈(大阪冬の陣における講和交渉後、故意に約束を破りすべての堀を埋める→大坂城側の抗議にも「居留守」「仮病」を使って完全無視)
・父(正信)の死後、「権あるものは禄少なく」の大原則を破る→宇都宮城釣り天井事件による改易
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「権あるものは禄少なく」は、現代における企業の人事管理にも通ずる金言?
いかがでしたか?
今回は、戦国大名の参謀として活躍した軍師について、小和田哲男氏による著書に沿ってご紹介いたしました。
では、ここからはブックカバーの背表紙側に記された6人の人物(軍師)と、その人にまつわる代表的なエピソードを本文中から抜き出して、本記事における最後の締めとさせていただきます。
1.竹中半兵衛(p.138)
・「戦わずに勝つ」…力攻めと並行した、敵対大名方の諸将に対する勧降工作により、相手方重臣の「寝返り」により切り崩しに成功
2.山本勘助(p.71)
・「川中島での陰の働き」…軍師本来の仕事とは陰陽道(「気」を見て判断)
※「城の五気」を見ることであり、「啄木鳥の戦法」は余計な仕事?
3.黒田官兵衛(p.146)
・主君を亡くし茫然自失の秀吉に天下取りを決心させた1言…「毛利方に信長の死を知られないうちに講和を結び、急ぎ京に引き返して光秀を討てば、秀吉殿の御運が開ける」
※尤も、この切れ味鋭い冷徹な「氷の頭脳」が仇となり、小田原征伐以後は秀吉に警戒され、秀吉は三成を優遇
4.本多正信(p.227)
・「たぬき寝入り」の本来の意味とは?…会議の時に眠ったふりをして、賛成できるいい意見が出たとき急に起きて賛成発言を行い、たとえ自分よりも遥かに「格上」の人が言った意見でも、気に入らない意見の時には眠ったふりをする
5.片倉小十郎(p.124)
・政宗を救った、小田原遅参の弁明時における機転…斬り死にを覚悟した緊張した場面であるが、政宗自身が不安感を出したらアウト→主君が困難な状況に立ち至った時、補佐役が同じように動揺してしまったらどうにもならないので、つとめて平静を装い、いざという場合の腹を決めることにより、主君を落ち着かせる
6.真田幸村(p.170)
・秀忠に大ショックを与えた関ヶ原の策…寡少の兵で、狩り働きしている秀忠軍を挑発して城門近くまで誘き寄せる「おとり戦法」→城に近づいてきたら鉄砲を浴びせ、秀忠軍に大量の死傷者
※籠城戦が得意な幸村らしい戦い方
先ずは、非科学的ながらもジンクスとか占いも活用するという点、次に「たぬき寝入り」、そして「主君が討たれる可能性がある場面でも、努めて平静を装い、いざという時の腹を決める」・・・
さらに籠城戦における「おとり戦法」と、力攻めと同時に「切り崩し工作」も行う点が、現代の社会生活において参考になるのではないかと思います。
皆さんも是非とも一度、戦国軍師の生き方について学んでみてはいかがでしょうか?