昔の地図には、今は無き「?」がいっぱい!?・・・えっ?漁協、農協に、電話局??青果市場まで、、、
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とりあえずファミマで「おやつ」
今日の“お散歩”は、
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ファミリーマート市川行徳街道店
ここって、昔は「電話局」だったんだぁ?
懐かしい、、、
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昭和35年の地図見てます♪
水道局の前は、
南行徳の村役場があった場所なのだそうだ。
今は市川市の老人福祉施設になっている。
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南行徳村欠真間字香取101-1
この場所に道路元標があったはずだが…
残念ながら
付近を捜索しても見つからない、、、
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内匠堀
元和6年頃に田中内匠と狩野浄天により 開削された幅2間(3.6m)ほどの灌漑用水路で、これにより、行徳、浦安地域の農業が大きく発展したとされている。
このあたりでは船が通れるくらい(0.5~0.8m)の水深があったのだそうだ。
中学校と高校は海側に移転したが、
南行徳小学校は今もこの場所に存在する。
(千葉県市川市欠真間1-6-38/本ブログ管理者2019.3.16撮影)
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江戸時代は1万石以上!
大正6年には1万1千石(約1650㌧)、水田面積500町歩余り(約496ha)で、東葛飾郡のなかでは行徳町がナンバーワンだったのだそうだ。。。
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現在は暗渠歩道化されて
コンクリート製の側溝に替わり、
主に雨水排水路として使われているとの事。
(千葉県市川市欠真間1-6-38/本ブログ管理者2019.3.16撮影)
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香取交番は元警察署(本署)
どうりで
交番にしては大きな建物だと思ったよ♪
昭和58年に浦安市美浜へ移転(現在の浦安警察署)、さらに平成7年には行徳警察署が分離し、海に近い埋立地の塩浜地区に新設されたため、ここは現在では行徳署管轄の交番として利用されているようだ。
県道6号「市川浦安線」の旧道である行徳街道を挟んだ向かい側には、香取神社が鎮座する。
(千葉県市川市香取1-8-4/本ブログ管理者2019.3.16撮影)
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①松原味噌醸造所跡(現・松原商店)
「お米の専門店」という看板が出ているが、既に仕舞屋のようである。
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②芋権青果市場跡(推定位置)
茶色い壁のマンションが建つ場所?
(千葉県市川市香取1丁目にて本ブログ管理者2019.3.16撮影)
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農協跡は自治会館(A)
割と最近まで残っていた漁協も、
平成30年9月1日に市川市行徳漁業協同組合と南行徳漁業協同組合が合併し、市川市漁業協同組合が設立され、
本部事務所は市川市塩浜1丁目にある旧行徳漁協の側に統合され、(B)の場所にあった南行徳の事務所跡は更地化されてしまっていた。
行徳漁協の主取扱品は「海苔」で、
現在でも市内では約494haの海面で、
海苔を年間約1,500万枚生産しているのだそうだ。
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行徳産の海苔
磯の香りと甘味が強いのが特徴♪
(道の駅「いちかわ」にて本ブログ管理者2019.3.17購入実食の上、撮影)
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市川の水産業の歴史は、近世以来近代まで、遠浅の海を利用した製塩業が中心で、特に江戸時代には、経済的には十州塩(瀬戸内海沿岸地域で生産された塩)に比して劣勢であったにもかかわらず、政治的、軍事的な配慮から幕府によって監視と保護が加えられ、製塩業は伝統的に続けられた。
しかし、全国的な流通網の整備による十州塩の圧迫と幕府の保護政策の緩みとともに停滞し、全体としては零細な経営を維持しながら明治時代へ移行した。
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明治35年の旧漁業法の実施とともに市川でも漁業組合が結成され、明治42年頃には、船橋・浦安より漁場を借り受けて、本格的な海苔養殖業が始まった。
しかし、当時の海苔養殖業は、半農半漁の生活形態及び漁場の少なさなどから副業的な性格のものだったのだという。
その後停滞と衰退を繰り返しながら細々と続いてきた製塩業も、大正6年の一大津波により大被害を受けその衰退は決定的なものとなり、そうした製塩業の衰退とともに漁民は自ら漁場開墾を続け、次第に海苔養殖業へと比重を移していく。
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そして、昭和25年には、漁業改革により新漁業法が実施され、公有水面における漁業権の獲得によって、遂に市川(行徳)も、船橋、浦安と同様の権利を持って海苔養殖業を始めることになったのだそうだ。
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ところが、昭和30年頃から、この東京湾沿岸に公有水面埋立事業が進み、市川の対岸の東京都沿岸をはじめ歴史と伝統のある海苔養殖場が次々と姿を消していき、市川でも一部放棄という局面を迎えた。
また、陸においては、昭和40年代、行徳・南行徳の農地に対して大規模な土地区画整理事業が進められ、海と陸の双方から都市化の波をかぶって、それまでの半農半漁の生活が根底から覆されることになり、漁業者は将来への不安を抱えながらの漁業継続を余儀なくされた。
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南行徳漁協跡
遂に戸建て分譲住宅として売却される。
(千葉県市川市欠真間1-12-21/本ブログ管理者2019.3.17撮影)
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それでもなお、東京湾沿岸地域全体が都市化の波に洗われ、浦安が昭和46年に漁業権を全面放棄、船橋は昭和44年と48年の2回に分けて漁業権を全面放棄し、その後は漁場を縮小して短期漁業権の毎年度更新により継続している逆境のなかで、市川(行徳)は健闘している。