「トイレの神様」に守られた家を、見学しよう!…大間野町旧中村家住宅にて、、、 | ゆるポタで心リセット“おれ野_お散歩日記”by_✡CAMMIYA…ちょいマニアックで開運

「トイレの神様」に守られた家を、見学しよう!…大間野町旧中村家住宅にて、、、

懐かしの「ボットン便所」

昔はスリッパではなく草履を履いて入ったらしい。

桶の中に

籾殻を入れて消臭剤として使っていたそうだ。。。

トイレに悪い霊を寄せ付けないように

「トイレの神様」が祀られている。

(埼玉県越谷市大間野町1-100-4/本ブログ管理者2018.9.29撮影)

越谷市保存民家「大間野町旧中村家住宅」

江戸時代に旧大間野村(現越谷市大間野町周辺)の名主を勤めた中村氏の旧宅で、平成9年に越谷市が寄贈を受け、建築当初の姿に復元したもの。

移築による保存ではなく、

屋敷林に囲まれた元々の敷地全体を保存している。
敷地内には主屋・長屋門・石蔵・土蔵があり、いずれも現在では失われつつある伝統的な建築技法と古材を出来る限り再利用して復元しているのだそうだ。

中村家は家伝によると元々は豊臣方である小西行長の家臣であり、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後は徳川方に従って関東へ移住し、この地を開拓したと伝えられている。

各建物には昔の生活用具や

中村家に関する記録などが展示されていた。

先ずは敷地入口に長屋門が有り、

この長屋門は寄棟造・瓦葺き、正面17.72m×側面4.54m(面積81.58㎡)の規模で、明治19(1886)年に建てられた。

中央には欅の1枚板を利用した

大扉と潜り戸「入口」として設けられている。

外壁の漆喰は「鼠漆喰」と呼ばれる灰色の漆喰で、松を焼いて出来る煤(松煙墨=「しょうえんぼく」)を加えて灰色に仕上げられている。

現地係員の説明だと、この灰色こそが「金持ち&成功者の証」であるとのことで、今で言えば“シルバー(銀色・燻銀)のような意味合いなのだろうか?

(埼玉県越谷市大間野町1-100-4/本ブログ管理者2018.9.29撮影)

役人など来客は式台付玄関から入室

正面向かって左手に回った立派な玄関。

まぁ、これ自体は他所でもよく見たスタイル。

■本ブログ内関連記事参照

旧中村家における式台付玄関の屋根には、

魔除けの蛇と、

その上の鬼瓦には家紋が彫られていた。

(埼玉県越谷市大間野町1-100-4/本ブログ管理者2018.9.29撮影)

座敷・奥座敷

式台付き玄関から入ると座敷と奥座敷が有り、

村役人などの来訪があった際に使用する

「正式(公式)な部屋」であった。

“座敷”は7畳半の広さで

奥座敷の控えの間として利用されていた。

“奥座敷”は12畳の広さで、正面には「床の間」、

縁側との間に出窓風に設けられた「出書院」、

床の間の脇には「違い棚」が設けられている。

また、出書院にある欄間は精巧な仕上げになっている。

(埼玉県越谷市大間野町1-100-4/本ブログ管理者2018.9.29撮影)

住人・使用人は門から真正面の勝手口から入室

長屋門から真正面の位置に設定し、

また格子戸の下段から2段目をガラスにすることで、

中から侵入者の様子を伺う「覗き穴」となり、

防犯の役目も兼ね果たす。

(埼玉県越谷市大間野町1-100-4/本ブログ管理者2018.9.29撮影)

煙が地下を通るカマド

勝手口入ると土間になっており、

すぐ右手に竈があって、ここで煮炊きを行った。

煙は地面の下を通って

屋外にある煙突から排出する構造になっていた。

(埼玉県越谷市大間野町1-100-4/本ブログ管理者2018.9.29撮影)

大黒柱

釘を一切使わない『木組み』と呼ばれる熟練した大工のみが使いこなせる熟練の技で木と木をつなぎ合わせる技法で造られている。

現在では、寺社・仏閣などの古来日本木造建築をあつかえる宮大工に依頼しないと再現不能の建築技法である。

この主屋は大正3(1914)年に5年の工期を掛けて建てられたもので、寄棟造・瓦葺き、正面20.24m×側面12.05m(面積226.54㎡)の規模。

先述の通り式台付き玄関や書院造の奥座敷を持ち、

江戸時代からの格式をとどめている。

大黒柱は1尺1寸6分(約35cm)の欅材で、

大木を1本丸のまま利用している。

大黒柱だけではなく梁も1本モノ・1枚板を贅沢に使用。

おそらく今の時代なら1億円はするだろう。

■本ブログ内関連記事参照

住人家族の生活の場だった「板敷の間」の入口部分にある梁(鴨居部)には、立派な神棚が備え付けられていた。

(埼玉県越谷市大間野町1-100-4/本ブログ管理者2018.9.29撮影)

素材の形を上手く活かして梁に使用

元々の大木の曲がり具合、

節の形がそのまま表現されている。

なお、屋根裏部屋があり、

水害多発地帯であった大間野地区では、

こういった名主の大きな家の2階部分が

大水が出た際に村民衆が逃げ込める避難所であり、

また非常食(おにぎり等)の炊き出しの場であった。

同様の事例が

東京都北区や千葉県浦安市などで確認できる。

■本ブログ内関連記事(東京・北区編)参照

■本ブログ内関連記事(浦安編)参照

(埼玉県越谷市大間野町1-100-4/本ブログ管理者2018.9.29撮影)

明治時代の古いガラス

私の廉価デジカメでは巧く表現できないが、

真横から見るとガラス面に若干の歪みが確認できる。

この手のモノは群馬県安中市で見たことがある。

■本ブログ内関連記事参照

庭には

農業の神様である奥多摩の御嶽神社を祀る祠がある。

また、樹齢400年のヒバの木が植えられ、

中村家の「シンボルツリー」であった。

(埼玉県越谷市大間野町1-100-4/本ブログ管理者2018.9.29撮影)

土蔵の扉は1枚の重さ約300kg!

明治27(1894)年に造られた土蔵は、切妻造・瓦葺き、正面7..29m×側面4.54m(延床面積45.33㎡)の規模で、1階床下に高さ約1.2mの通気用の空間を設けている

また四方にも

外部から開けることが出来る通気口も備えている。

2階に上がる階段は「箱階段」形態。

1階には長持ちやお膳などの生活道具、

2階には江戸時代の古文書や書籍類などが

数多く保管されていたのだそうだ。。。

(埼玉県越谷市大間野町1-100-4/本ブログ管理者2018.9.29撮影)

続いて昭和初期に建てられた石蔵

大きさは正面4.54m×側面6.36m(延床面積37.18㎡)。

房州石で造られている。

房州とは「房総」、つまり現在の千葉県である。

入口には

向かって右側に漆喰造りの戸があり、

左側の木製の格子戸が取り付けられている。

米蔵として利用されたようだ。

また、室内側面に木製の格子を貼り付け、

米を保管する際に

湿気による品質劣化を抑止する工夫がなされている。

現地係員の説明によると、

石面に直接、米俵を何段も積み重ねていくと、

壁面・床面の石と直に接する側面および最下段は

そのままの状態だと湿気によるカビが発生してしまう。

それを防ぐ設備が施されていたとのこと。

(埼玉県越谷市大間野町1-100-4/本ブログ管理者2018.9.29撮影)