古地図でお散歩♪…1/2万・明治39年の「仙台南部」、38年の「原町」編(*過去記事更新版)
仙台市若林区河原町1丁目にて本ブログ管理者撮影
ちなみに「ちょうきんね」と読むそうだ。↑
要するにこの場所は、仙台城下の南端入口
江戸時代には木戸があって番人が通行者を取り調べたそうですよ。
↑
仙台市地下鉄南北線「河原町」駅前の案内看板
なるほど・・・確かに河原町というのは仙台城下町の南端に位置している。
木戸よりも城下側が「河原町」
それに対して城下町の外側は「新河原町」と称して区別していたのですね。
今では全てまとめて新住居表示「河原町1~2丁目」ですが、、、↑
旧「奥州街道」を北上する
後ろを振り返ると
地下鉄「河原町」駅前のツインタワーマンションが見えます♪
(仙台市若林区穀町~南材木町にかけて本ブログ管理者撮影)↑
城下町らしい道路のカーブ♪
さらに奥州街道を北上し続けます・・・
(仙台市若林区穀町~南材木町にかけて本ブログ管理者撮影)
市中心部から見ると南東に位置する町で、もと米沢にあった新町(あらまち)が、領主の伊達氏に従って16世紀末に住民ごと岩出山に、続いて17世紀初めに仙台に移転して荒町と改称、さらに一度仙台の中で移転して現在地に落ち着いた。
伊達御供の御譜代町の一つで、古くからの商店街として続いている奥州街道筋の町であり、仙台城下の中での位置関係を見ると江戸に近い南東にあった。
麴の専売権を与えられ、明治時代まで麹屋が多かった。
江戸時代から現在まで、豪商が軒を連ねたり、中心商店街・繁華街になったことはないが、庶民的な商工業地であり続けている。
(*直下地図の、このへん:――線/本ブログ管理者2010.05.10撮影)
↓
1/2万「仙台南部」・・・明治39年と、グーグルマップ最新版との比較
*
長町駅は1896年(明治29年)2月21日開業
:
(1)奥州街道→旧国道4号の変遷
――:旧奥州街道
――:平成20年3月31日までの旧国道4号
――:平成20年4月1日からの旧国道4号
*
【平成20年4月1日付の旧国道4号における経路変更】
仙台市道太白2309号、若林1157号など(宮城県仙台市太白区 - 若林区) - あすと長町の街開きに伴い、長町副都心から愛宕大橋北詰までの区間において、従来の旧国道4号が市道に降格し、あすと長町大通り線および広瀬河畔通りが旧国道4号に昇格(接続する国道286号の起点も仙台市太白区長町から同区根岸町に変更)。
:
(2)旧名取郡役所、旧茂ヶ崎村役場跡付近
長町 (宮城県) … 1915年(大正4年)2月1日から1928年(昭和3年)3月31日まで宮城県名取郡にあった町で、茂ヶ崎村が町制施行・改称して成立し、仙台市に編入合併されて消滅した。
現在の同市太白区の中心部および周辺一帯にあたる。
(長町宿 … 江戸時代の奥州街道の宿場町)
↑
本記事冒頭の旧版地図に重ねると、
○:旧名取郡役所=現・七十七銀行長町支店付近?
○:旧茂ヶ崎村役場=現・ナイスシティor仙台銀行?
「地下鉄長町駅・たいはっくる前」バス停
南行にて、、、
上:現在の広瀬橋から見た仙台市中心部と、
下:平成20年4月の経路変更で旧国道4号指定から外れた区間
(国道を示すオニギリ表示が白いガムテープ貼りで隠されたキロポスト)
:
仙台市若林区内で本ブログ管理者2010.05.10撮影
1/2万「原町」・・・明治38年と、グーグルマップ最新版との比較
:
(3)苦竹までの舟運
苦竹地区(現・仙台市宮城野区)は、江戸時代の仙台城下町東郊にあった運河のターミナルで、貞山運河から七北田川~舟曳堀~苦竹御蔵と遡上した。
*
江戸時代の寛文年間(1661年 - 1672年)に、七北田川の河口が現在の宮城県宮城郡七ヶ浜町湊浜から現・仙台市宮城野区蒲生に流路変更された。
同時に、仙台城下町とその外港である塩竈(松島湾内…現。宮城県塩釜市)とを結ぶ運河系と物流ルートが整備された。
↓
すなわち、仙台湾に沿って塩竈と当地との間に「御舟入堀」(現・貞山運河の一部)を開削し、当地の「御舟入堀」には荷揚げするための御舟溜と蒲生御蔵を設置、そして、蒲生御蔵と七北田川河口部とを繋ぐ「高瀬堀」を開削し、七北田川をさかのぼった中流には荷揚げするための鶴巻舟溜と鶴巻御蔵を設置、さらに鶴巻御蔵と苦竹との間には「御舟曳堀」を開削し、苦竹には荷揚げするための苦竹舟溜と苦竹御蔵が設置され、苦竹御蔵からは陸路で塩竃街道(現・国道45号)下りの第一宿駅である原町宿に運んで原町御蔵に集荷され、隣接する仙台城下町に配送するという流通システムである。
このルートでは年貢米や塩などが運ばれたそうだ。
↓
1871年8月29日(明治4年7月14日)、廃藩置県が実施されて仙台藩が消滅すると、年貢米の流通拠点としての蒲生の地位は失われ、さらに内陸の「御舟曳堀」も使用不能になり、当地の舟運は衰退する。
*
現在、陸上自衛隊仙台駐屯地の敷地内北東角に僅かに残る窪地(地図中○印)が、かつての「御舟曳堀」の跡だろうか・・・?
(現・仙台市宮城野区新田地区に残存する神社位置…地図中○より推定)
:
(4)旧宮城郡役所、旧原町役場跡付近
1888年(明治11年)の郡区町村編制法により仙台区が宮城郡より分立し、
宮城郡の郡役所は南目村の旧原町代官所に置かれた。
市制・町村制が敷かれた1889年(明治22年)当時の仙台市を除く宮城郡の人口は60,518人であったそうだ。。。
明治22年(1889年)4月1日 - 市制・町村制施行に伴い「原町」成立。
(旧・小田原村+南目村+苦竹村)
1926年(大正15年) - 郡役所廃止
昭和3年(1928年)4月1日 - 原町が仙台市に編入される。
*
2つの寺院と“清水沼”の位置関係を参考にしつつ新旧地図で比較すると、
○:原町役場=現・仙台市原町コミセン&宮城野消防署原町出張所
○:旧宮城郡役所=現・エステート清水駐車場
の位置と推定される。
:
“藩政時代から、この場所は「宮城郡国分南目御代官所」が置かれ、明治になって「第2大区事務取扱所」となった。1902年(明治35年)に郡制と共に建物は新築され、1926年(大正15年)の郡制廃止まで郡役所として使用された。昭和になって、建物は、仙台市に移管され、戦後は、授産所となったが、現在は、明治末期の宮城郡役所の玄関前を撮した写真に写っている樹齢300年と言われる、この松の木と現地説明板があるのみである”