水野忠邦公の墓所を訪ねて。。。 | ゆるポタで心リセット“おれ野_お散歩日記”by_✡CAMMIYA…ちょいマニアックで開運

水野忠邦公の墓所を訪ねて。。。

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写真(上):山川不動尊/↓地図中の位置

写真(下):塚越畜産前/↓地図中の位置

山川不動尊(茨城県指定文化財)

真言宗豊山派に属する明王山不動院大栄時の本尊。

寺伝によれば不動尊は弘法大師の作といわれ、平将門が主本尊として京都の東寺から関東に持ち帰ったものと伝えられ、天慶の乱(940年)のおり、山川沼(本記事最下部参照)に身を投じた将門の家臣とともに失なわれてしまったが、その後漁師の網にかかり、のち上山川の不動宿に安置され、慶弔六年(1601)山川城主(本記事下部参照)のはからいによって現在の地に移されたと伝えられている。

本記事掲載写真は全て本ブログ管理者2012.11.25撮影
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JR宇都宮線の小山駅から水戸線に乗り継いで、結城まで輪行♪

(空中写真は茨城県結城市山川新宿…グーグルマップより引用)

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地図中付近の様子。。。

付近にある集会所前を西に進むと、、、
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この地区は畜産業が盛んなんだなぁ。。。ってな印象を持ちます…

写真(上):地図中付近

写真(下):地図中付近

の三差路をさらに西へ進むと、、、
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いよいよ水野忠邦公が眠る墓所の入口へ近づきます(地図中
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では、中へ入ってみましょう♪
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ありましたよ! 正面の目立つ場所に♪

水野 忠邦(みずの ただくに)

江戸時代後期の大名老中肥前唐津藩主、のち遠州浜松藩主。

1839年(天保10年)に老中首座となる。

1837年(天保8年)4月に徳川家慶が第12代将軍に就任し、ついで1841年(天保12年)閏1月に大御所・徳川家斉の薨去を経て、家斉旧側近を罷免。

遠山景元(←いわゆる遠山の金さん)矢部定謙岡本正成鳥居耀蔵渋川敬直後藤三右衛門を登用して天保の改革に着手した。

天保の改革では「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」との覚書を申し渡し「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めた。

具体的には、、、

農村から多数農民が逃散して江戸に流入している状況に鑑み、農村復興のため人返し令を発し、

弛緩した大御所時代の風を矯正すべく奢侈禁止・風俗粛正を命じ、

また、物価騰貴は株仲間に原因ありとして

株仲間の解散を命じる低物価政策を実施したが、

その一方で低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策をとったため、

物価引下げとは相反する結果をもたらした。

腹心の遠山は庶民を苦しめる政策に反対し、これを緩和した事により庶民の人気を得、後に『遠山の金さん』として語り継がれた。

また、1843年(天保14年)9月に上知令大名、旗本には十里四方に該当する領地を幕府に返上させ、かわりに、大名・旗本の本領の付近で替え地を幕府から支給するという命令を出し、江戸・大坂十里四方を幕府が一元的に管理する方針)を断行しようとして大名・旗本の反対に遭うなどした上、腹心の鳥居が上知令反対派の老中・土井利位に寝返って機密文書を渡すなどしたため、閏9月13日に老中を罷免されて失脚した。
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どうやらここは、水野氏の中でも

現在の結城市中心市街地を統治した「結城藩=水野一族の宗家筋」の水野氏ではなく、唐津→浜松→山形と転封し続けた系統の「水野氏」の墓のようですよ・・・

(結城城跡の位置・・・地図中の位置)

(ちなみに結城藩水野氏の菩薩寺は孝顕寺→地図中の位置)

要するに、水野忠邦の系列と、結城藩の水野氏は、

親戚関係(祖先は同じ)ではあるが、まったく別のグループ

なのですよ、、、

下総山川藩(しもうさやまかわはん)

下総国(現在の茨城県結城市)に存在した藩。

戦国時代、

現在の結城市山川地区は結城氏の一族である山川氏が治めていた。

山川氏は後に結城秀康の家臣となり、その所領は天領となった。

慶長9年(1604年)に松平定勝の三男・松平定綱は山川に5000石を与えられ、

後の慶長14年(1609年)には1万石を加増されて1万5000石の大名として諸侯に列したことから、山川藩が立藩した。

その後定綱は元和2年(1616年)常陸国下妻藩に移され、

代わって水野忠元が3万石で入った

嫡男の水野忠善は代官制度の確立や検地などを行なって藩政の安定化に努めたが、寛永12年(1635年)に1万石加増の上で駿河国田中藩に加増移封され、山川藩は廃藩となり、その所領は天領、旗本領(壬生藩の支配下?)となった

なお、水野家(唐津・浜松・山形藩=山川水野氏系列)では、初代忠元が諸侯に列したことを記念して、領地ではなくなったが許可を得て、11代忠邦までの墓所が同地につくられている

山川水野氏は、元々は大阪夏の陣の功で結城山川三万石を与えられた。

その後は、駿河田中、三河吉田、岡崎、唐津、浜松(→幕末は山形)と要地を転々としたが、常に幕府の要職にあった(これが水野忠邦の系列に該当)。

父祖の地である現在の結城市山川地区に万松寺を建立し菩提寺とした。

ちなみに万松寺は、1855年の火災により焼失廃寺となり現在に至る。
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地図中の位置にて、、、

山川沼第1期地区(圃場整備/昭和45~49年度)

総事業費3億4285万円

受益面積793ha/埋立面積958ha/埋立土量150332㎥

山川沼第2期地区(干拓地等農地整備/昭和46~54年度)

総事業費14億3306万円

受益面積1724ha/埋立面積396ha/埋立土量680817㎥