『河岸の渡し』跡。。。 | ゆるポタで心リセット“おれ野_お散歩日記”by_✡CAMMIYA…ちょいマニアックで開運

『河岸の渡し』跡。。。

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『河岸の渡し』跡・・・↓地図中(本ブログ管理者2010.7.23撮影)

直上写真(上)左に映っている錆付いた道路標識跡には

「関城町(現・筑西市)」と記された

市町村界を示すプレートが取り付けられていたのだそうです。。。

□外部リンク参照
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渡船場跡の少し上流から河岸集落を写す(↓地図中

【関連新聞記事】

悠久の流れ河物語・鬼怒川<6> 県道明野間々田線

2009/03/26(木) 茨城新聞朝刊 南西 A版 18頁より引用

鬼怒川に架かる栄橋と鬼怒川大橋の間に、一本の県道が東西に走る。筑西市側からは堤防を越えて畑の間を進み川岸に行き着く。結城市側からは同市上山川の香取神社にたどり着き、河川敷に入る道になる。しかし、その間をつなぐ橋はない。

筑西土木事務所の話では、一九五九年に真壁町と関城町関本を結ぶ県道と、上山川から栃木県小山市間々田を結ぶ県道を一本にし、県道明野間々田線に認定した。

旧関城町側(↓地図中)は、堤防の内側に広大な畑地が広がっている。

時代は戦雲広がる一九三八年。筑西市太田に陸軍の飛行場建設が始まる。県道明野間々田線の南側を走る現在の県道筑西三和線の整備が急がれた。この県道は筑西市と古河市を結び、軍の重要道路に位置付けられたという。旧関本町報によると三四年に鬼怒川大橋の前身の木橋「下川原橋」が架けられた。旧関城町関係者らによると、

あくまで仮説だが、飛行場建設のために軍事施設の整備が優先され、明野間々田線の橋は先送りにされたようだ

橋のない代わりに、関本と上山川をつなぐ結城市営の渡舟が運行されていた。鬼怒川を挟み、筑西市側に田畑を持つ結城市民が多く、舟に荷馬車や牛を積んで渡ったという。

この渡舟は、九七年ごろまで運営されていたが、「時代は車社会。ほとんど利用されておらず、最後は釣り人が使っていた」という

鬼怒川の増水で舟が流され、渡舟はその後再開されず、まさに川で県道が途切れる形になった

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渡船場跡を背に後ろを振り返ってみると(↓地図中)・・・

「明野間々田線BP【=始点】(左)」と記された杭が足元にありました。。。。。
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茨城県道・栃木県道54号明野間々田線

(いばらきけんどう・とちぎけんどう54ごう あけのままだせん)は、

茨城県筑西市から栃木県小山市に至る県道主要地方道)。

筑西市・明野地区(旧明野町)から関城地区(旧関城町)、

結城市南部の江川地区(旧江川村)を通って小山市の間々田地区(旧間々田町)へ至る。

途中の鬼怒川には橋が架かっていないため、

南にある鬼怒川大橋(茨城県道23号下館三和線)へ迂回する必要がある

実延長:27.026km(茨城県区間:20.748km、栃木県区間:6.278km)、

うち交通不能区間24m

認定:1959年(昭和34年)10月14日
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茨城県筑西土木事務所の公式図面(管内図)を拝見する限りでは、

現在の分断点(道路管理境界)は、↑地図中の位置でしょうか。。。?

茨城県が設置した境界杭が道端に在りました・・・・・。
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実質的な道路運用上の「BP(すなわち路線の始点)」は、

こちら(↑地図中)に移っているようです。。。
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こちら(↑地図中)には、

茨城県土木部が設置した「距離標」が道端に埋め込まれていました。。。

結城市巡回バス  □外部リンク(結城市役所公式HP)参照





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■茨城県道54号の鬼怒川分断点