五十路は人生半ばなり -34ページ目

五十路は人生半ばなり

2014年7月に好酸球性多発血管炎性肉芽腫症(アレルギー性肉芽腫性血管炎、チャーグ・ストラウス症候群)という難病を発症。
退院後4カ月でプレドニンの処方も0mgになり、現在はほぼ健康人と同じ生活。あたふたと再起のための仕事の準備を進めている。

プレドニンの効果で好酸球が抑制されて徐々に体調を取り戻し始めると、今度はリハビリによる運動機能の回復訓練が行われるようになった。こんな病気で入院したのは初めてだから「そんなことまでしてもらえるのか」というのが正直な感想だったが、確かに病院としても歩けない患者を放り出すわけにもいかないだろう。体調が戻ってきても一度衰えた筋肉は勝手に回復してはくれず、地道に鍛え直していかなければならない。根が楽観的な私でさえ、ほんのわずかな時間ではあるが失われてしまった筋肉・・・わりと頑張って鍛えて、結構好きだった筋肉に思いを馳せて落ち込んでしまったほどだ。あの筋肉が今や小学生にもおよばないほどうっすらとか細くなってしまって・・なんとも可愛らしいこと・・など考え始めると、今度は気持ちが晴れてくる。結構短時間で落ち込みから抜け出せるのだ。よし!また鍛えてやるからな・・などと思ったものの、現実は意外に厳しかった。

筋肉を鍛えるという行為には結構慣れていたのだが、それは筋肉があるからできることだ。無くなってしまったわけではない(とトレーナーさんは言う)が、存在の確認も定かにはできなくなった筋肉は、鍛えようにも「無いからできない」。じっと立っていることがやっとで、わずか10cmの段差さえ登れない。どうすりゃいいんだと途方に暮れていると、要は筋肉を想定した動きを地道に繰り返していけば良いのだとトレーナーさんが教えてくれた。トレーナーさんなどと呼んでいるが、正式には理学療法士というらしい。ごく僅かの動作を反復することによって、萎縮してしまった筋肉を動かしてやる。そして少しずつ少しずつ、筋肉を太くしていくのだと言う。気の長い話だ。しかし、このリハビリは私にとって退院を左右する重要なカギでもあったのだ。

私が住んでいる住居は、集合住宅の4階だ。エレベーターはない。階段に手すりもない。つまり退院したら私はまず、手すりの無い階段を4階まで上らなければ家に帰れない。そのことを何気なくリハビリトレーナーさんに話すと、それが医師に伝えられて、いつの間にか私が4階まで手すり無しの階段を上れるようになることが退院の重要な要件のようになってしまった。その頃にはプレドニンの量もだいぶ減っていて、医師からも「30mgになれば普通の環境でも生活可能」と伝えられていた。プレドニンが30mgになるのが早いか、私が4階まで登れるようになるのが早いかという感じだ。病院の立場としてはプレドニン投与が30mgになると入院治療は完了したことになるので、いつまでもリハビリだけで置いておくわけにいかない・・とはハッキリ言わないが、そうらしい。そうなるとリハビリ科がある別の病院に転院してもらうと・・冷たいお言葉。ここまで来てまた病院を変えるのもストレスなので、いきおいリハビリに力が入ることになる。もしかすると嵌められたかなとも思うのだが、お陰でプレドニン30mgになる前に、私は自力(杖つき)で自宅の4階分に相当する病院の階段を上ることができるようになった。

好酸球性多発血管炎性肉芽腫症・・パソコンに登録していなければタイピングするのも面倒になりそうな病名だが、もとはチャーグ・ストラウス症候群、またはアレルギー性肉芽腫性血管炎と呼ばれていたそうだ。どちらにしても簡単な病名ではないが、一部の体質の患者を除けばプレドニンなどのステロイドの投与によって症状の改善が望める。私も3日間のプレドニン点滴投与の後、錠剤による経口投与で徐々に症状が改善されていった。全身の筋力低下・・筋肉減少と言った方が良いのだろうか、2週間振りの入浴で鏡に映された私の姿は拒食症で見られる身体症状に酷似していた・・それと足のしびれを除けば、自分でも健康になったと感じられるくらい症状の改善は顕著だった。およそ1週間に1回のペースで血液検査が行われ、病気を引き起こしている好酸球の生成はプレドニンによってしっかり抑制されていることが伝えられた。しかしその度に医師の口からは「カリウムの値がちょっとね」とか「電解質のバランスがくずれている」など、素人の私には「?」でしかない結果も一緒に伝えられた。

遠慮する必要はないと解っているのだが、医師が非常に多忙であることを知っているので「それはどういうことですか?」とか「電解質ってなんですか?」というような、おそらく基礎から説明しないといけなくなるであろう質問をすることが私はできなかった。看護士さんも同様に多忙であったし(1人で40人くらいの患者を担当しているそうだ)、何度か質問してみたこともあるが「話せば長い」という暗黙のメッセージに遮られて深く問いただすことができなかった。唯一ゆっくりと話ができる相手はリハビリのトレーナーさんだけだったが、彼女は真剣に考えて答えてくれるものの最後には「私はそっちの専門ではないので・・」ということになる。仕方ないことだろうと思う、と言うより専門外のことにも一生懸命答えようとしてくれる姿勢にはひたすら感謝している。

素人に解りにくい「電解質」というものを、なるベく解りやすく噛み砕いて教えてくれたのは(不出来な私は結局半分くらいしか解らなかったが)担当医師の助手をしている研修医の若い先生だった。医師の資格を取って1年目の新人らしい。私が入院していたのは国立病院で、そこでは医師の育成にも力を注いでいた。医学生の研修や看護士学生の研修、新人医師の育成など様々な教育が医療現場で行われていて、私たち入院患者も(強制的ではないが)協力することに承諾していた。私は運が良かったのだが、中には脊髄液を取るのを新人研修医にやられて、何度も失敗される痛みに耐え兼ねて「もうやめてくれ」と叫んだ患者もいるそうだ(リハビリトレーナーさん談)。幸いにして私を担当してくれた研修医は、非常に優秀で思いやりにあふれた若者だった。彼について言えば勉強熱心、物腰が穏やか、親切丁寧などなど称賛の言葉にこと欠かない。私が電解質というものを疑問に思っているのを知って、一生懸命に調べてくれたのだろう。来るたびに色々な説明をしてくれた。

しかし結局、電解質というのは自分の努力でどうにかなるようなものではないということが解っただけだった。食事は病院で管理されているし、睡眠や運動は関係なさそうだし、自分でできることといったら水を飲むことくらいという印象だ。そう、水を飲むことが重要だと認識したのも入院生活のおかげだ。一度など怖い女医さんに血液検査の結果を指摘され「水はちゃんと飲んでいますか?」と厳しい目で睨まれたことがあったくらいだから、何かしら関係はあるのだろう。考えてみると私は、水を飲む習慣が全く無かったなあと思い至ったのも、その一幕によるものだ。相当な酒豪・・というか酒好きであった私は、水というものを意識して飲むことはなかった。「酒がまずくなるから」と偉そうなことを言っていても、ブランデーに氷をドバドバ入れて飲むのだから結果的に水分は多量に摂取していることになる。それが病院に来てお酒を飲まなくなったことで(本当は入院よりも前に体調不良からお酒をやめていたのだが)水分も摂取されなくなってしまったのだ。それが解ってからはなるべく水分をとるようにし始めて、最初は500ml1本を1日で飲みきるのが辛かったのに、退院前には1日4本は簡単に飲んでしまうようになっていた。退院が近くなった頃には電解質のことも言われなくなっていたので、多少は改善していたのではないだろうか。
念願の国立病院を受診できることになり、私の気持ちは早くも「希望」と同義の「転院」に傾いていた。検査漬けの一週間を過ごした地元総合病院では、転院できなかった時のためにとベッドを確保していてくれたが、私としては二度と戻りたくない病院だった。検査検査で一向に治療が行われない病院など、このまま居続けたら手遅れになるかも知れない。

国立病院で初めての診察を行ってくれた医師は同病院の神経内科の主任医師で、ちょっと有名な医者らしい。そんな素振りも見せないにこやかな方で、総合病院から用意された資料を見ながら「大腸がちょっと腫れているね」「喘息の経験はありますか」など、早くも当たりを付けているようにうかがえる問診や触診の内容に、安堵感が膨らむのを抑えきれない。たぶん医師から見たら、その時のわたしの目は期待に輝いていたのではないだろうか。「入院できますか?」の問いにも「もちろん、すぐ用意します」と心強いお返事。直後「あっちこっちに連絡しないといけないので」と、診察室に私を残して席を立っていった。この時の医師の行動の意味は、その後に解ることになる。

しばらく待っていると、車イスを押した看護士さんが迎えに来てくれた。その時はもう歩行困難で、車イスでないとスムーズな移動ができなくなっていたのだ。車イスに乗って看護士さんに連れられていったのは、循環器系の診察室。寝かされたベッドの周りを数人の医師と看護師が囲み、採血など次から次と検査を行っていく。前に入院していた地元総合病院では何となく倦怠感漂うような診察が多かったので、多くの医師と看護師が連携して時間を惜しむようにテキパキと検査が行われていく様を見るのは実に新鮮だった。その診察室での検査が終わるとすぐまた車イスに乗せられて次の検査へ。X線やCTスキャン、MRI、造影剤を使ったMRA、脳波から心電図まで休むことなく診察室、検査室を連れ歩かれて、最後にたどり着いたのが末梢神経の伝達を静電気によって調べる装置が設置された検査室。そこまで車イスを押してきてくれたのは、主治医となった医師とその助手の研修医だった。今思うと、あの先生に車イスを押させたとは・・と恐縮するような医師だったが、その時はもちろん解らなかった。

数時間のうちに10種類を超える検査が行われ、その後ようやく入院する病室まで案内された。4人部屋だったがまだ入院患者の先客が1人しかおらず「どのベッドがいいですか?」と聞いてくれた医師に、私は迷わず(おそらく笑顔さえ浮かべて)窓際のベッドを希望した。前の病院では窓から離れたベッドで、窓際のベッドの人がずっと羨ましかったのだ。しばらくベッドで横になって気持ちを落ち着けているうちに医師が再び来て、検査結果と治療方針を説明してくれた。そのときはまだ好酸球性多発血管炎性肉芽腫症という病名は出ていなかったが、好酸球が原因なのは明白だったので、これを抑えるためにプレドニンの点滴による大量投与を3日間行うことになった。前の病院では一切治療が行われず不安で仕方なかったので、治療を優先して行おうとしてくれるこの病院の対応が私には実に嬉しかった。それより何より、たった数時間で必要な全ての検査を完了させてしまう手並みというか連携に驚いた。最初に診察してくれた主任医師は、この検査を即日に完了させるための段取りを組んでくれたのだ。病院によってこうも違うものかと、驚くばかりだ。

私がこのように検査で連れ回されている間に、妻と息子は(病院へは妻が車で送ってくれて、夏休みに入っていた息子も一緒だった)前の病院に取って返して入院費の清算をしたり、今度の病院での入院生活に必要なものを買いそろえたりと陰で走り回ってくれていた。ちなみに我が家の家計の主力は妻の方で、決して暇な人ではない。この後も何度も私の病気関連で仕事を休んで協力してくれたり・・ひたすら感謝で頭が上がらない。