朝、まだ暗い内にゴミ出しのために階段をおりて、ゴミの袋を置いてからまた階段を上る。手すりを使わないように・・と思うたび悪いような気持ちになる。この手すりは大家さんが私のためにつけてくれたのだ。100%私だけのためというわけでなく大家さんも歳だから階段がきつくなって・・ということだったが、私の勝手な要望に応えてくれたことには違いない。リハビリのためには手すりを使わずに階段を上る訓練が必要だけど、手すりを使わないと大家さんに申し訳ないという・・。今でこそ手すりを全く使わなくても4階の自宅まで上れるようになったが、退院初日は「上れるかな」という不安とともに杖に必死にすがりながら(その時はまだ手すりがなかったので)ようやく目的の4階にたどり着いたときの達成感と言ったら。
入院中のリハビリでも、自宅がある4階まで階段を上れるかが一番の課題だった。そのため普通のリハビリと違って、私のリハビリの多くは病院内の階段を使って行われた。自宅の階段の一段が高いものでトレーナーさんが病院内の階段を全部調べて、一番段差が高い階段を見付けてくれた。同じ病院の階段でも場所によって段差には違いがあるのだとその時初めて知った。各階の移動は普通はエスカレーターかエレベーターで階段は全て非常口のような作りになっている病院だったから、階段を使うためには大きな非常扉を開けて中に入らなければならない。人気のない階段で・・私がリハビリに使っていた階段は使用する人が少なかったのだろうと思う・・よいしょよいしょと無い筋肉にむち打ってリハビリに励んでいると、ときどき疾風のような早さで白衣を着た医者が駆け降りたり駆け上がったりしてくる。私の姿を見付けると一様に足を止めて、会釈をして静かに横をすり抜ける。皆、紳士なのだ。
ある時には、やっと踊り場にたどり着いて一息付くと後ろから「大分いい感じになってきましたね」・・振り返ると私の担当医で、練習の様子を後ろから見ていたらしい。「それじゃ」と言った後はまた走って階段を上っていったが、この医師がゆっくり歩いているところを私は見たことがない。妻から聞いた話では、病院では医者や看護士など職員は基本的にはエレベーターは使わないことになっているのだという。万一の災害の時にエレベーター内に閉じ込められることを警戒するためだが、若い医師などは平然とエレベーターに乗っていることも多い。階段を走っているのは割と年配の医師が多いように思うのだが、自覚の違いか教育の違いか。どちらにしても走っている医師の方が、悠然と歩いている医師より好感が持てることは確かだ。
院内を自由に移動して良いという許可が下りてからは、一人でも空いた時間に階段に行っては練習を繰り返した。当時はまだプレドニンの投与量も多かったので疲れやすく、1階から3階まで通しで上ると動悸、息切れでしばらくは壁に寄り掛かって休まなければならなかった。そしてまた1階まで降りてロビーの椅子で一休みしてから階段を上る。今日は2セット、今日は3セットなど往復回数を決めて挑んでいたが、練習中に担当医や担当医の上の神経内科医長などと出会って声を掛けられると、ついつい「もう1セット」と頑張ってしまって翌日筋肉痛に悩まされたりした。かなり歩けるようになってきてからは、階段練習の後に病院の敷地内のコンビニに行って飲み物を買ってくることもメニューに加わった。空調完備の病院の建物から一歩外に出ると、晩夏の熱気と湿気が一気に押し寄せて外・・自由な世界を強く意識したものだ。よれよれの寝巻きのままでコンビニに行っても不審がられないのも、また気楽だった。
リハビリでトレーナーさんが一生懸命に階段練習に取り組んでくれたのは、「歩けないで家に帰ると引きこもりになってしまうから」だそうだ。確かに自分の足で階段が上れなかったら、家から出る気持ちも持てないだろう。私は何とか階段を上れるようにしてもらってから退院したが、それでも外出する時は勇気が必要だったくらいだ。今は気楽に外出できるようになったが、足先や足裏の麻痺は実のところ治ってはいない。慣れただけというのが実際のところだろう。治れば治るに越したことは無いが、このままでも文句は言うまい。