最近は出かける時に玄関でふと考えることが多い。杖を持って行こうかどうしようか。かなり普通に歩けるようになってきたので、階段や急な坂道以外は杖なしでも歩くことができる。傍から見ていれば変な歩き方なのかも知れないが、本人は普通に歩いているつもりでいる。杖に体重の一部を預けることに慣れてしまったから、杖なしで歩くと腰に負担が掛かるように感じる。しかし近場ならば、問題なく杖に頼らずに買物に出かけられるようになった。退院した当時には最大の難関だった4階の自宅までの手すり無し階段も、杖付きではあるが難なく上れるようになったことを考えると凄い進歩だと思う。
最初に杖を手にしたのは、入院していた病院のリハビリ室だ。ようやく始まった歩行訓練のときにトレーナーさんが「これを使ってみてください」と黒い杖を持ってきた。それまで杖など手にしたこともなかったが、いざ使ってみると非常に歩きやすい。たった1本の杖がこんなにも心強いものなのかと嬉しくなり、さっそく妻に頼んで自分専用の杖を買ってきてもらった。私が入院していた病院は敷地内にコンビニエンスストアがあり、入院などに必要なほとんどのものが売られている。杖もそのコンビニで売られているものだが、コンビニで売っているだけに院内で同じ杖を使っている人が多い。色々な患者さんがいるからトラブルの元にならないように、名前を書いておいた方が良いだろうと思った。その当時はまだ院内を自由に歩けなかったし、一人でコンビニに行く許可も出ていなかったので、検温に来てくれた看護士さんに白マジックを貸してもらえないか尋ねてみた。黒い杖だったから、白マジックならどこにでも名前が書けると思ったのだ。その看護士さんは「白マジック・・何に使うんですか?」と怪訝そうな顔をしたが、私が杖に名前を書きたいのだと説明すると少し考えてから「それじゃ、名前のシール作って来ましょうか」と提案してくれた。「こんなの」と言って見せてくれたのは院内の各器物に貼られている病棟名が記されたシールだった。看護士さんがニコニコして言ってくれるものだから、忙しいのに悪いなと思いつつも「ありがとうございます」とお願いしてしまった。
その日の夕方にでき上がったシールを持った看護士さんが来てくれて、まだ指先が定まらない私の代わりに杖にシールを貼ってくれた。さすがは病院という感じで、何のてらいもなく如何にも堂々と私のフルネームが書かれている。翌日リハビリにその杖を持っていくとトレーナーさんが名前のシールに気付いて「病院でやってくれたんですか」と驚いていた。結構なサービスだったようだ。入院中は少しずつ端がめくれてくるシールを押し付けながら剥がさないように大事に使っていたが、退院してから剥がしてしまった。代わりに名前を書こうと思いながら、未だにそのまま使っている。
杖の卒業時を決めるのは、なかなか難しそうだ。普通に歩く分には歩けるが、素早い動きはできない。杖を持っているとそれが目印になって、周囲の人が「こいつは早く動けないだろう」と察してくれる便利さがある。そのために私がもたもたしていてもトラブルが起りにくい。杖を手放すということは、そうした甘えができなくなるということだ。また予期せぬ階段や坂道にも対処しなければならなくなる。普通の人にとっては当たり前のことなのだが、当たり前を当たり前と思えるようになるのに少しばかり勇気が必要なのだ。リハビリのトレーナーさんによると、杖は意外と置き忘れが多いのだと言う。それはつまり杖なしで歩けるようになっても、なかなか杖が手放せない人が多いということでもある。私にしてもどこかに杖を置き忘れたりしたら、たぶんまた買おうとは思わないだろう。杖の卒業の切っ掛けとしては、置き忘れもまた良いのかも知れない。