栗の木は切り倒された。(Dec. 29, 2023) | 微睡のブログ〜八ヶ岳南麓から〜

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八ヶ岳南麓、北杜市長坂町小荒間に在住。ときどき仕事をしながら、読書、音楽鑑賞、カメラ撮影、オートバイツーリングなどの趣味を楽しんでいます。

 12月29日(金) 8時15分起床。快晴。気温4度。体重71.3キロ。

 寒暖計をチェックしようとウッドデッキに出ると、チェーンソーのモーター音が近くから聞こえる。樹幹越に高所作業車が見える。栗の木のあたりだ。伸び広がった枝を切るのだろうか。

 

 

 朝食後リハビリの自主訓練をする。それから、最近歩数を稼いでないので歩くことにした。いつものようにiPhoneのカメラアプリで撮影しながら栗の木がどうなったか見に行くと、ない、なくなっていた。近所には栗の巨木が2本あり、そのうちの1本で、こちらに移ってきた10数年前から外出のたびに必ず目にしてきた栗の木だ。写真にもよく収めた。Seeing is believing. やがて栗の木のない風景が当たり前になり、記憶からも失せてゆくだろう。しかし、こちらに移ってから姿形がよく、長い年月風雪に耐えてきた存在感のある木が何本切り倒されたことか。もちろんかつて住んでいた場所でも同じことはいつだってあり、生まれ育った実家の庭の、木登りをしたり枝で懸垂をした懐かしい椿の木もとうにない。だから、このようなことには諦めの気持ち、心理的耐性ができているはずなのだが、木が切り倒されるたびに、そしてそれがきょぼくであればあるほど、失われたものへの哀惜の情が強くなる。

 

 

 アメリカのネイチャーライティングのアンソロジーの中に、アジアの農業についての一文があった。西欧の文明は自然を征服することで発達してきたが、一方、アジアは自然を活かし共存してきたといわれるが、著者曰く(相当昔に読んだので著者の言葉を曲解している恐れもあるが)、アジアの水田地帯を見ると、アジアもまた自然を破壊して水田に変えてしまったのではないか。むろん、これは言いがかりのようなものだ。こんなことを言い出したらきりがない。しかし、この文章が前から気になっており、いま思い出したのは、木はいつだって惜しげもなく切り倒されてしまうからだ。切り倒す理由はあるのだろう。しかし、理由はともかく、いかにもあっさり切り倒してしまう。だから日本では神社の杜が聖域として護られているのだろう。