OEDも踏み台にしかならない。(Jul. 30, 2021) | 微睡のブログ〜八ヶ岳南麓から〜

微睡のブログ〜八ヶ岳南麓から〜

八ヶ岳南麓、北杜市長坂町小荒間に在住。ときどき仕事をしながら、読書、音楽鑑賞、カメラ撮影、オートバイツーリングなどの趣味を楽しんでいます。

 二度寝、三度寝、何度寝したか知らないが、目覚めても体が動かない。目覚めるたびにiPadに「ヘイ、Siri、今何時?」と聞くが、返事を聞く前にまた眠ってしまう。
 9時過ぎさすがにもう起きなければならないと思う。ベッドに腰かけて体が目覚めるのを待つ。体の各所が痛い。しかし、いつもの痛みとちがう痛み。筋肉痛だ。昨日本の運び出しを少し手伝っただけなのに情けない。

 昨日体の一部を失ったようだと書いたが喪失感も大きい。蔵書の一部、数百冊がなくなっただけなのに、ボディーブローのように徐々に効いてきた。しかし、この喪失感には慣れなければならない。やがて当たり前に慣れるだろう。自分で読もうと思って買った本だが、自分が読めないならば、世に流通させた方がよいに決まっている。

 昔の小説を読むと金がなくて本を売る話が出てくる。古本屋は質屋のような機能も果たしていたにちがいない。金に困ったら大切な本を売り、金が入ったら買い戻す。それが出来たのも、本がいまより価値があったのだろう。

 ぼくの蔵書の中にもそこそこの値段で売れるものがある。佐藤書房の社長もこれ売れませよと太鼓判を捺してくれたものがある。しかし、一方数十万円かけて買ったOxford English Dictionaryは、脚立がなければ、それを積んで踏み台にしましょうといわれてしまった。古本屋にはもうそれだけの価値しかないということだ。

 OEDは、実は、ぼくが大学院に合格したときに父が買ってくれたものだった。ぼくは別に欲しいと思わなかったし、めったに引くことのない、積み上げれば腰の辺までくるような辞書など重たいし場所ふさぎだしいい迷惑だった。しかし、父の気持ちを思うといらないとはいえなかった。きっと業者に、息子さん、おめでとうございます、とおだてられ買わされたのだろう。父の気持ちを人質に高価な辞書を買わせた業者が今でも憎い。

 体の怠さが抜けず、午前中は軽い読書。木山捷平のごく短いエッセイを読む。

 昼食後は来月18日に行う文学講座のチラシを作る。しかし、プリンターのインクと用紙がないことに気づき(一回の文学講座でA4の用紙を300~400枚使用するし、インクも補充が必要だ)、またその他の用事もあり韮崎へ買物に出かける。

 夕食後はTVドラマ「リヴィエラ」を2本観る。