涼しい一日だった。小雨も降った。体を動かすことがなかったので肌寒さを覚えた。
天候が悪いので庭の一画に植えた野菜の生育がよくない。トマトは2本立ち枯れしそうだ。寂しい収穫だ。
午前10時過ぎ明日の朝食の食パンがないので小淵沢のセルクルへ買いに行くが休みだった。全粒粉入りの焼くと香ばしいパンが買えなくて残念である。スーパーやコンビニのパンを買う気になれなかった。
11時、ズームミーティングの資料作り。
午後1時、今年前期最後のミーティング。午後4時10分終了。
昨日もそうだったが、ミーティングが終了しても開放感がない。ましてや前期最後のミーティングなのだから一入開放感があってもよいのだが疲労感しかない。まだワクチンの副反応がしぶとく残っているのだろうか。高齢者には副反応がない、だとすれば若いということかも知れないが嬉しくはない。
疲れ、気持ちは沈んでいるが、多少なりとも気持ちを引き締め、元気が出るように、友人にメールの返信を書くことにした。何もしなければ、ぼんやり気の抜けた状態のままやがて眠ってしまいそうだ。
友人はぼくが送った『徒然草』のテキストのお礼をメールでくれた。古文に強いわけではなく、ましてや『徒然草』の専門家でもないが、自分が読みやすいように、黒文字の本文の中に青文字のルビや注釈を加えて、本文を読み、別ページにある注釈や現代語訳を参照することを繰り返さずに、スラスラ読めるような工夫をしたテキストを送ったのである。友人はそれを読んで初めて『徒然草』を堪能し、読み終えたのでお礼のメールをくれたのである。姉妹や友人にも送ったという。
その礼状に対する返信は以下の通り。
『徒然草』については読み終えたという言葉はふさわしくない。最初から通読するにせよ、拾い読みするにせよ、何度も繰り返し手に取る書物だから。『枕草子』や『方丈記』もそのように読みたい。江戸時代の俳人でもある横井也有の『鶉衣』も読み始めているが、名文であるもののあまりにも教養が深すぎて注釈がなければ難しい。近代日本では詩人薄田泣菫の『茶話』『艸木虫魚』が繰り返し繰り返し読みたい文章だ。難しい漢字が出てくるのは困りものだが、自然に感応した美しい文章には陶然とする。
外国ものではモンテーニュの『エセー』。高校生の頃から、訳者は違えど、断続的に読んでいる。現在岩波文庫版の『エセー6』(全6巻)の最終章を読んでいる。あと数十頁で読了だ。出来れば今日中に読了し、読了したら目ぼしい章を再度拾い読みしつつ、別の訳者による『エセー』(白水社版)を通読する予定。さらに実家の書庫にあるはずの『随想録(エセー)』(新潮文庫版)や英語版も出来れば読みたいし、アンドレ・ジッドの『モンテーニュ論』、堀田善衛の伝記的著作『ミシェル 城館の人』(全3巻)なども並行して読むだろう。何しろ『エセー』を読むことはもはやライフワークなのだ。
昨日第3巻第13章(最終章)読んでいたら、次のような一節を見つけた。
自分にだけ耳を傾けよう。われわれはわれわれ自身に、自分がもっとも必要とするすべてを語る。自分自身の判断にもとづいて何度も間違った人が、自分の判断を永久にあてにしないようなら、ばかではないだろうか。
「自分にだけ耳を傾けよう」というのはいかにもモンテーニュ的な物言いだ。自分に耳を傾けない、傾けられない者は自分がないのだと思う。正しいことでも、悪いことでも、それらは自分なのだ。
『エセー』を読むことをライフワークにするということは事前に考えていたことではない。返信の文章のようにときどきこのように自分の計画を人に話して聞かせるのは、実は自分に聞かせているのである。自分の言葉に責任を持ちたいからだ。本当の決意は胸深くに秘めておくものかもしれない。しかし、別に死を覚悟しているわけではないから、文字にすることでこれからの読書の筋道をつけたのである。
返信を書いたらいっそう疲れを覚えた。疲労が蓄積し、肩が凝ったときのようにイライラしてきた。ベッドに倒れ込むとたちまち眠ってしまう。ようやく目を覚ましたときには21時を廻っていた。スッキリしない。