武市半平太=坂本龍馬! | 知っとうや(真実を求めて?!)

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⚡2900年続いた人類中心文明は、近い将来、五六七(弥勒)時代となり、本来あるべき姿に戻ります。それまでは産みの苦しみが続きますが、見事に成就して欲しいものです。⚡

明治維新は、それまでの日本の政治、経済、文化を大転換させた日本の歴史の中でもトップクラスの転換点です。

 

しかしながら、これから約20年間に起きて行く時代変化は、明治維新を遥かに上回る大転換の時代になる、と私は考えています。

 

次の時代がどのようになるのか?

 

それは誰も見えておらず、神のみぞ知る!

 

ですが、これからだんだん見え出すはずです。世の中の流れを注視して行きたいと思います。

 

幕末から明治維新に至る過程は、今後の参考になるはずです。

 

幕末には、後に偉人と称される幕末の志士が生まれました。

 

その中で、土佐出身で活躍した武市瑞山(通称:武市半平太)と坂本龍馬について、一般的には伝わっていない真実をご紹介します。

 

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武市瑞山は、文政12年(1829年)年、土佐国(高知県高知市)生まれです。

 

 

一刀流の剣術家として土佐で道場を開いていた武市瑞山ですが、1860年の桜田門外の変をきっかけとして一気に尊王攘夷運動の高まりだした中、吉田松陰が提唱していた草莽崛起(そうもうくっき)の思想に共鳴し、土佐藩で尊王攘夷運動を推進して行きます。

 

※草莽崛起とは、『「草莽(そうもう)」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを指し、「在野の人よ、立ち上がれ」の意。』

(WIKIPEDIAから引用)

 

そして、1861年には尊王攘夷を掲げて土佐勤王党を結成します。


土佐勤王党には、後に頭角を現す坂本龍馬を初めとして、間崎哲馬・平井収二郎・中岡慎太郎・吉村虎太郎・岡田以蔵ら最終的に192人が加盟します。

 

土佐勤王党の活動は日に日に大きくなりますが、土佐藩は幕府とのつながりが強く開国・公武合体を唱えつつ、土佐藩の改革を勧めようとしていた参政の吉田東洋と対立しだします。

 

1862年4月、土佐勤王党のメンバーによって吉田東洋が殺害される事件が起き、これを機に土佐勤王党は土佐藩内での発言力を増し、土佐藩の藩政を掌握します。

 

しかしながら、急進的な土佐勤王党の活動に対して、引退後も土佐藩運営に大きな影響力を持っていた前々藩主の山内容堂が土佐勤王党の弾圧に乗り出します。

 

1863年9月に発生した八月十八日の政変後、土佐勤王党の党員は首領の武市瑞山を初めとして片っ端から捕縛・投獄させられます。逃れることのできた一部の党員は脱藩します。その一人に坂本龍馬がいました。

 

武市瑞山は切腹を命じられ、他の党員も死罪などに処せられます。

 

こうして、1865年7月、武市瑞山の死とともに土佐勤王党は壊滅させらます。

 

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土佐勤王党に参加していたメンバーの一部は土佐藩を脱藩しますが、その中で最も頭角を現すのが坂本龍馬です。

 

1862年3月に土佐藩を脱藩した坂本龍馬は、長州藩の久坂玄瑞や高杉晋作と交流し、その後幕府軍艦奉行並・勝海舟と出会うことになります。

 

1863年10月に神戸海軍塾塾頭に任ぜられます。

 


1864年8月には京都市中において長州藩と会津藩が交戦を行っ禁門の変が起き、長州藩が敗北します。

 

また、同時期に、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの幕府に開国を迫る四国連合艦隊は、開国に抵抗する長州藩を関門海峡にて砲撃する事件が起きます(下関戦争)。これに敗退した長州藩は、勢力が衰え、攘夷派が一歩後退します。

 

このような社会背景の中、坂本龍馬は勝海舟の紹介で薩摩藩西郷隆盛と面会し、亀山社中の設立に繋げます。

 

 

 

当時の薩摩藩は幕府改革を主張していましたが、自藩だけでは展望が開けず、大久保利通や西郷隆盛らを中心に幕府に対する強硬論が高まっていました。

 

そこに坂本龍馬の仲介もあり、1866年1月それまで対立していた長州藩と同盟(薩長同盟)を結ぶことになります。

 

その後、坂本龍馬は、亀山社中を海援隊に発展させ、大政奉還、王政復古の流れに大きな活躍をします。

 

しかし、坂本龍馬は1867年12月に京都で暗殺されてしまいます。

 

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土佐藩での師弟関係であった武市半平太(瑞山)と坂本龍馬の略歴は以上です。

 

坂本龍馬が切腹した武市半平太の意志を引き継いで、倒幕・王政復古、その次の明治維新への流れを作った、とも解釈出来ます。

 

ところが、実は武市半平太は死んでいなかったのです。

 

もちろん、そのような歴史は残されていません。

 

切腹させられたのは別人か、もしくは切腹を偽装した可能性があります。

 

私は、武市半平太を裏切った形になっている山内容堂と、武市半平太は裏で繋がっていたのではないかと考えています。

 

尊王攘夷運動が土佐勤王党によって拡大し、土佐藩を呑みこんでしまいまいます。

 

そのまま放っておくと、全国に土佐土佐勤王党による尊王攘夷運動が拡がって行くことを危惧した幕府は、土佐藩に大きな圧力をかけたはずです。

 

幕府の要請を断れないと考えた山内容堂は、武市半平太と大きな芝居を打ったのではないか、ということです。

 

切腹で死んだことになった武市半平太はその後、どうしたのでしょうか?

 

実は、弟子の坂本龍馬に成り済ましたのです。

 

坂本龍馬が台頭しだしたのは、西郷隆盛と出会った1864年後半からです。

 

この時期は、すでに武市半平太以下、大半の土佐勤王党のメンバーは捕らえられており、土佐勤王党の活動は事実上停止していました。

 

従って、おそらく1863年初め頃には、山内容堂、武市半平太、元の坂本龍馬の間で秘密裏に土佐勤王党の今後について話し合いがもたれていたのではないかと推測しています。

 

土佐藩だけでは尊王攘夷運動を成就させるのは難しいため、有力な長州藩や薩摩藩と組むための大芝居であり、そのため、武市半平太を切腹させたことにして土佐藩を一旦大人しくさせ、幕府の目を欺いたのでしょう。

 

そこからは、武市半平太が弟子の坂本龍馬に成り済ましたので、坂本龍馬が頭角を現したようです。

 

しかし、結局、坂本龍馬は暗殺されます。

 

ただし、この先にも大どんでん返しのドラマが待っていたのです。

 

つづく。

 

最後までお読みいただきましてありがとうございました。

 

 

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