水ラインの秘密② | 知っとうや(真実を求めて?!)

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⚡2900年続いた人類中心文明は、近い将来、五六七(弥勒)時代となり、本来あるべき姿に戻ります。それまでは産みの苦しみが続きますが、見事に成就して欲しいものです。⚡

前回記事では、水戸-霞ヶ浦に存在する水ラインについてご紹介しました。

今回も、水ラインに関して最近分かったことをご紹介します。

私は福岡県に住んでいます。学問の神様、菅原道真が祀られている太宰府天満宮の近くなのですが、その太宰府天満宮付近には古代、都があったのは間違いないようです。その跡は、現在、太宰府政庁跡として管理されています。

この太宰府政庁跡から西側の九州山地までの間は、福岡市から久留米市南部以降にまで広がる筑紫平野の中で、一番狭い部分になっています。距離にして2㎞を切るくらいです。

この場所に、天智天皇が防塁として築いたとされる水城跡があります。
<WIKI:水城>

造られた時代は7世紀中頃、当時は唐・新羅連合軍と戦っていた時代(白村江の戦い)であり、敵軍の侵入を防ぐために造られた防塁とされています。

これが、ヤフー地図から拝借した水城付近の空撮写真です。

水城②

(クリック拡大)

右上から左下に走る斜めの緑ラインが水城跡です。水城は、高さ10m、幅80m程ある土塁で、現在では木々で覆われた森のような状態で保存され、現場では緑の森が直線状に繋がっているように見えます。

現在は、水城跡として公園として管理されていて、住宅街の中にある緑豊かな憩いの場所になっています。

水城①


水城④


水城⑤


私は、この水城が昔から気になっていました。そして疑問がありました。

それは、「天智天皇は、本当に敵から都を防ぐために水城を造ったのだろうか?」、ということでした。

唐・新羅からの攻撃を守るためであるなら、海岸から10㎞以上も内陸に防塁を築くことは腑に落ちません。造るなら元寇の際に博多湾沿岸に造られた防塁のように、海岸沿いに造るはずです。
<WIKI:元寇防塁>

それに、水城の中には水を通す木桶があったことが分かっています。水城の中を水が流れていたのです。

戦争に備えて防塁を造るには、中に水道を造るなどの時間的余裕はないはずです。

結論から言いますが、水城は防塁ではないのです。


それでは天智天皇は何のために造ったのでしょうか?

その理由は、浄化システムの補完のためなのです。

次のヤフー地図をご覧ください。
http://yahoo.jp/HrkHPn

福岡市南部に隣接した春日市、さらにその南の大野城市を中心としたマップです。たくさんの大きな池があるのが一目瞭然です。

これらの池は、神代に春日神を中心に造られた浄化システムの一環の湧水の池なのです。神代は、ここに春日神の都があったのです。従って春日という地名になっているのです。春日神社もあります。

水城のある太宰府市は、この地図では右側(東側)に位置し、山の麓で、池の数も少ないのです。(小さな池は幾つかあります)

神代は春日市辺りが中心だったのですが、上代に入って太宰府に都を建設したのだと思われます。(天智天皇は、その後近江大津宮に遷都)

都を建設する場合、波動(この場合、風水とも言い換えられる)が重要になってきます。太宰府地区は湧水が少なく波動が低くかったのだと思います。

そこで、天智天皇(実際には中大兄皇子の時代)は、太宰府地区の波動を補完するために、水城を考えだしたのです。

大野城市の牛頸山から水道を引き、それを土塁のように覆ったのです。

そして、太宰府政庁跡に水を引き、太宰府地区に小さな池を幾つか造って波動を高くしたのです。古代の人々は、神国日本の浄化システムのことを知っていたのです。


現在の水城跡は、最初の空撮写真を見ていただければ明らかですが、幹線道路、高速道路、二つの鉄道で分断されています。当然、水道も流れていません。

要は、太宰府周辺の波動が落ちているのです。太宰府天満宮というのは、現在学問の神様とされていますが、本来は太宰府地区を守護している神社だと思います。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。