何故、日本には、たくさんの神社があるのでしょうか?
考えたことはありますか?
「日本は神国だから」といえばそれまでですが、それでは神社はいつ頃から造られだしたのでしょうか?
磐座(いわくら)や神籬(ひもろぎ)などは、磁場調整の関係等で古くからあったと思われます。3000年以上前でしょう。私は、こういった巨石信仰が神社の元になったと考えていましたが、どうも、そればかりでははないようなのです。どちらかと言えば、そうでない神社の方が圧倒的に多いようです。<参照:巨石の真実>
現在の神道の頂点は伊勢神宮。そこに祀られているのは天照大神です。
このように天照大神を神社で祀るようになったのは、実は今から約2100年前からのようなのです。それまでは、日本には、今のような神社はなかったようです。
時代は第9代開化天皇の終盤の頃。この頃までは、天照大神は宮中(朝廷内)に倭大国魂神(やまとおおくにのたまのかみ)とともに祀られていたようです。
<参照:倭大国魂神>
倭大国魂神とは聞きなれない神で、今のところ詳細もよく分かりませんが、私は倭大国魂神は、天照大神から分裂した神で、天照大神が日神であるのに対して倭大国魂神はその名の通り神国日本列島を守護する神だと考えています。
この二神を、地上の統括者たる天皇が祭祀となり、宮中で代々祀っていたのです。
ところが、金星系が登場し、ウォークインされた五十日鶴彦(いかつるひこ)が朝廷を侵略して開化天皇を殺害、皇太子にすり替わり、崇神天皇となります。
<参照:欠史八代と崇神天皇>
金星系崇神天皇は、宮中に祀られていた天照大神と倭大国魂神の二神の神気に耐えられず(金星系だから波動が低いため高波動には耐えられない)、このニ神を宮中から放り出し、淳名入姫に命じて外に祀らせます。
こちらもウォークインされていた淳名入姫は、二神から出る高波動で髪が抜け、体も痩せ、二神をきちんと祀ることができなかったようです。このことは、記紀に書かれています。
<WIKI:淳名入姫命>
結局、このニ神を、開化天皇時代に斎宮を行っていたイスキリこと豊鍬入姫が奈良の笠縫邑に祀ります。この後、諸事情があって、豊鍬入姫は二神を各地に移していき、最後は紀伊国、現在の和歌山市の日前神宮(ひのくまじんぐう)・國懸神宮(くにかかすじんぐう)に祀ることになります。
<WIKI:日前神宮・國懸神宮>
日前神宮のご神体である日像鏡、國懸神宮のご神体である日矛鏡は、天照大神と倭大国魂神の二神のことだと考えられます。これが元伊勢です。
先日、この神社を参拝しました。
日前神宮の本殿です。
素晴らしい神気でした。伊勢神宮内宮とは比較になりませんでした。
写真にも素晴らしい光が写りました。
(クリック拡大)
豊鍬入姫がこの地に二神を祀った後、それを引継いだのが倭姫命(やまとひめのみこと)です。<WIKI:倭姫命>
<WIKI:元伊勢>
倭姫は、ニ神を祀るのに、よりふさわしい場所を探して各地を巡ります。その場所が現在は、元伊勢として、たくさんの場所に、天照大神や豊受大神が祀られています。そして、最終的に落ち着いたのが伊勢神宮というわけです。
本来は、天照大神と倭大国魂神は、伊勢神宮や元伊勢ではなく、宮中に祀られるべきものだったのです。
皇祖神天照大神を祀る神社の由来は、これで分かりましたが、その他の地方にたくさん鎮座している神社は、どのようにして出来ていったのでしょうか?
これが大変重要なのです。
金星系崇神天皇の時代になって、民は増税や疫病で苦しめられます。崇神天皇は金星系ウォークインを増やす政策を次々に行っていきます。まさに現在の日本の状況と同じでしすよね。現代の食品添加物や医療などは疫病よりも恐ろしいです。
この状況に立ち上がったのが、先日書いた、イエス(豊城入彦命)、イスキリ(豊鍬入姫命)らなのです。
<参照:日本人イエスの足跡>
イエス、イスキリらは国内で説法をするなどして、奉仕活動を始めていきます。
イエスらが、まず最初に行った場所が、開化天皇の宮廷だった調宮(つきのみや)。そこの倉に保管されていた備蓄品を民のために放出していきました。この倉は宮中にあり、もともと二神を祀っていた場所でしたから強力な神威を持っていました。この場所は、その強力な神威、高波動によって災害や飢饉、疫病感染拡大などが抑制されていたのです。
この調宮の跡こそ、現在のさいたま市にある調神社(つきじんじゃ)なのです。
先日、調神社を参拝しました。JR浦和駅から徒歩10分。境内に入ると神気をすぐに感じました。
しかし、神社の周辺は至る所に邪気もあり、結界が張られていました。
こちらが本殿。神気が強いです。
こちらには大きなオーブが写りました。
(クリック拡大)
そう、調宮、調神社が最初の神社なのです。神社とは、現在のように単に神を祀っている場所ではなく、民のための奉仕活動の中心となる場所であり、イエス豊城入彦命、イスキリ豊鍬入姫命が考え出した場所だったのです。そして、イエス豊城入彦命、イスキリ豊鍬入姫命は、調宮と同じように、各地に神社の元になる場所を設け、神を祀ることで神威を高め、そこで説法と奉仕活動を行い、崇神天皇の悪政に対抗する民中心の地域づくりを行っていったのです。
後の人が、その場所にいろいろな神を勧請したのが現在の神社に変遷していったのでしょう。本来の神社が波動が高い訳はこのような経緯なのです。
イエス豊城入彦命、イスキリ豊鍬入姫命のこのような活動、考え方「清書」が、本来のキリスト教の考え方であり、現在のキリスト教「新約聖書」とは全く内容が異なるものだったのです。
その後、豊城入彦命イエスは海外へ行き、同様の考え方を世界中へ普及していきます。
最後まで読んでいただきありがとうございます。