上代の始まりは吉野ヶ里であると書きました。
紀元前2世紀頃から日本再興の動きが始まり、国内に小国ができていったようです。
この後、日本の起源である倭国になっていきますが、その立役者は神功皇后(じんぐうこうごう)です。
神功皇后は第14代天皇仲哀天皇の皇后とされていますが、何故、天皇ではなく皇后が前面に立ったのでしょうか?
まず、仲哀天皇について知る必要があります。第14代天皇とされていますが、初代神武天皇から第14代までは記紀が作り上げた天皇であり、実質的には第15代応神天皇が初代天皇になるようです。
仲哀天皇と神功皇后は、月人(天津神)の流れの魂であり、当時の新羅王朝からやってきたようです。新羅は、百済、任那(伽耶)とともに、倭人が建国したのですが、いずれも4~7世紀にかけて金星系によって乗っ取られてしまいます。その流れで、新羅や百済、任那の王族の系統が日本にやってきて、倭人の国を再興していったようです。そして、この二人の時代に倭国の基礎ができたようなのです。
二人は、おそらく、対馬、壱岐経由で博多、吉野ヶ里に到達し、吉野ヶ里に拠点を築いて国づくりを始めたようです。北部九州に、神道に由緒ある古い神社が多いのは、この二人が神社を創建していったからだと思います。西暦300年前半のことだと思います。
そして、数十年かけて、吉野ヶ里、筑紫地区を中心とした国が、後に邪馬台国と呼ばれる国になっていったのだと思います。
北部九州に地盤を築いた二人は、次に倭国の全国統一に向けての動きを試みます。西暦340年前後でしょうか。
このときに、金星系が大きく立ちはだかりだしたのです。
金星系は、倭人国を建国しようとしているグループのトップ、仲哀天皇にウォークインしてしまいます。トップが金星系になってしまった倭人グループは、大きく動揺したことでしょう。
この危機に立ち上がったのが、妻の神功皇后だったようです。神功皇后は、サイキックというか覚醒していたようで、その能力をいかんなく発揮し、男勝りで孤軍奮闘していったようです。
その後、ウォークインされた仲哀天皇は、短期間で亡くなったようです。これを記紀では次のように改竄して表現しています。ウイキペディアから転載します。
~転載開始~
8年(199年)熊襲討伐のため神功皇后とともに筑紫に赴いた仲哀天皇は、神憑りした神功皇后から神のお告げを受けた。 それは西海の宝の国(新羅のこと)を授けるという神託であった。しかし、仲哀天皇は、これを信じず神を非難した。そのため神の怒りに触れ、仲哀天皇は翌年2月、急に崩じてしまった。
~転載終了~
仲哀天皇は神憑りを信じなかったために、神の怒りに触れて亡くなった、とされています。これは全くの改竄です。
そもそも、熊襲征伐も改竄でしょう。仲哀天皇と神功皇后の実態を隠すためにこのような表現に書き換えているのです。
ウォークインされ亡くなった仲哀天皇を祀っている、福岡市にある全国的に有名な神社、香椎宮です。
こちらはご神木。
仲哀天皇がウォークインされた真実は、消されていました。仲哀天皇の本当の魂は、実際には、この香椎宮ではなく、遠く離れた佐賀県鳥栖市の山の麓の小さな神社に封印されていました。
私が普段通勤時に通る本道から、一本山側に入った小さな通り沿いにある、とある小さな神社です。誰しもが、ここに仲愛天皇が封印されているとは思っていないはずです。
つい最近、私のアンテナが感知したので行ってみました。その瞬間、インスピレーションで、この神社の本殿裏に仲哀天皇の魂が封印されていると浮かびました。小さな寂れた祠がありました。
小さな神社でしたが、大変な神気でした。
仲哀天皇が亡くなった後、神功皇后は、武内宿禰を従えて本州へ渡ることになります。こここから邪馬台国伝説が始まることになります。
最後まで読んでいただきありがとうございます。