家康の真実① | 知っとうや(真実を求めて?!)

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前回記事の関連になります。

<参照:戦国時代の真実>
 

 

信長、秀吉と、金星系政権が天下統一を成し遂げた後、天下分け目の一大決戦、関ヶ原の戦いに勝利し、地味ながらもあっという間に国内を平定したのは、誰もが知る歴史上の有名人物、徳川家康です。この三人は戦国武将三傑として英雄視されていますが、信長、秀吉だけでなく、家康も金星系だったのです。

 

ちなみに、関ケ原の戦いは、上空でUFOが観戦していたという話を聞いていましたが、これは事実だったのですね。月と金星のUFOが戦況を興味深くながめていたのでしょう。

 

金星系と言っても家康は、信長、秀吉と大きく異なる点があります。それは、信長、秀吉が人生の途中で金星系にウォークインされたのに対して、家康は本物と偽物がすり替わったのです。驚愕の事実でしょう!

 

もちろん、偽物は金星系がウォークインした人物。この人物が成り上がったのが、徳川家康なのです。

 

歴史の謎を調べていると、本当に腰を抜かす程、驚愕の事実の連続なのですが、これが判明したのは4月上旬。この時点では、私にとってこれまでで最大級の驚愕の事実でした。これからも驚愕の事実が書けると思いますが。

 

家康は、1543年に松平家が治める小国、三河に、父松平広忠、母於大の方の長男として誕生します。幼名は竹千代。その後、松平元康となります。

<WIKI:徳川家康>

 

当時の松平家は、東に守護大名今川義元率いる大国駿河。西に新進台頭著しい戦国大名織田信長率いる尾張国。大国に挟まれた小国です。いつ何時、両国に侵略されるか分からない状況だったようです。

 

そこで、元康の父、広忠は、元康が6歳の頃、親交があった駿河の今川義元の元へ、元康を人質として出すことを決意します。義元と同盟を結ぶことにしたのです。

 

ところが、元康が人質として今川家に送られている最中に、織田側と通じていた松平家家臣の裏切りによって、元康は織田側に奪われてしまったのです。結局、元康は、義元と敵対する信長の元で人質になったのです。悲運な人生ですね。


その二年後、今川と織田の抗争の際、信長の兄、信広が今川側に捕えられ人質となってしまいます。そこで、信長は自軍の人質となっている元康と、今川側の人質となった信広の交換を提案し、合意します。それによって、元康は当初の流れどおり今川義元の人質となり、17歳まで義元の元で暮らすことになります。

 

ここまでは正史であり、歴史上の事実で間違いないようです。

 

問題は、ここからです。

 

正史では、1560年6月、桶狭間の戦いが起きて、今川義元が織田軍によって討たれ、そこから今川家の勢力は弱くなり、その後、駿府国は信長によって制圧されます。

<WIKI:桶狭間の戦い>

 

この時、元康は17歳。義元の元で武士として精神・武術を鍛えられていた元康は、桶狭間の戦いによって義元が倒れたのをチャンスと捉え、三河国へ戻ります。そして、あれよあれよと、三河国を大きくしていきます。時には信長に近づき、時には信長に抵抗しながら力をつけていったとされています。

 

ところが、この頃、すでに偽の元康が登場し、すり替わっていたようなのです。

 

明治時代に、家康は影武者とすり替わったと主張する村岡素一郎という人物がいたようです。彼は、『史疑 徳川家康事』という書籍を出版し、当時の社会に大衝撃を与えたようです。結局、政府の圧力によってこの本は絶版。偽書とされてしまいます。

<WIKI:徳川家康の影武者説 >

 

この書籍は入手不可能なのですが、この内容をもとに分かりやすくした漫画本がありましたので、中古で購入してみました。忍者家康。かなり面白いです。

 

詳細を書くと長くなりますので、影武者説の内容を簡潔にご紹介します。まず、WIKIから転載します。

 

~転載開始~

 

影武者・世良田二郎三郎元信

 

村岡は元康と入れ替わった人物を「浄慶」、後に「世良田二郎三郎元信」と名乗った願人坊主であると推定している。また、彼の母は元康の母とされている於大の方である。父は江田松本坊という時宗の祈祷僧ではないかとしている。この父は彼が生まれた直後にどこへともなく出奔したとしている。
 

1547年(天分16年)、於大は久島土佐と再婚する。このとき江田との間に生まれた子供(幼名は国松という)は、家康の祖母である源応尼(於大の生母、松平清康継室とは別人)に養育を頼んだという。その後、国松は東照山円光院の住職・智短上人の門に入って「浄慶」と名乗ったとしている。しかし殺生禁断の地で小鳥を殺したため、破門されたという。その後浄慶は駿府を放浪していたが、あるときに又右衛門という男にかどわかされて、銭五貫で子供を欲しがっていた願人坊主の「酒井常光」なる者に売られたという。ちなみに願人坊主とは、物乞いをする坊主、または髪の毛の伸びた僧を指す。
 

そしてこうして少年時代を過ごした浄慶は1560年(永禄3年)に「世良田二郎三郎元信」と名乗る。実父の江田が新田氏の末裔であると称していたため、世良田姓を名乗ったという。そして同年4月の桶狭間の戦い直前、元信は元康の嫡男で駿府に人質としてあった竹千代(のちの松平信康)を誘拐して遠州掛塚に逃走したという。これが原因で、源応尼は同年5月6日に処刑されたとされる。
 

そして桶狭間で義元が信長に討たれて今川氏が混乱すると、「世良田二郎三郎元信」は同志を集めて浜松城を落とし、さらに勢いに乗じて三河を攻略しようとしたが、松平元康に敗れて、尾張に逃れる。織田信長と水野信元を使い、元康に今川から離反するよう説得する。しかし、元康は断り、怒った信長は、信元に命じて元康を攻撃する。しかし、元信が期待したような、本格的な侵攻にならず、孤立した元信は元康に降伏し、信康の身柄を元康に返還することを条件に罪を許され、その家臣になったという。

 

~転載終了~
 

村岡氏は、家康とすり替わった人物を「世良田二郎三郎元信」以下、「元信」と呼びます)と指摘しています。母親が松平元康(以下、「元康」と呼びます。似ているのでややこしい)と同じ於大の方です。父親は僧侶のようですね。

<WIKI:於大の方>

 

元信は、桶狭間の戦いの際に同志を集結させ浜松城を落とし、その勢いで三河に戻って松平家当主となり、国の立直しを行っていた元康と戦うことになります。三河を乗っ取ろうとしたのです。元信は、元康の実子信康を人質にとり、元康とすり替わって、自分が三河国の当主になるのが狙いだったようです。

 

しかし、元康に敗れてしまいます。

 

その後、信長も絡み、元信は元康と再度戦いますが、結局、元康に敗れます。そして、元信は元康に降伏し、家臣になったようです。1560年後半の話で、この時点では元康はすり替わっていません。問題はこの後です。

 

~転載開始~

 

「元信」の入れ替わり

 

村岡の主張では、元康は1560年(永禄3年)12月4日、織田信長と戦うべく尾張に向けて侵攻を開始したが、その途上である尾張守山において12月5日、元康が阿部正豊(弥七郎)に暗殺されたという。
 

これは家康の祖父松平清康が家臣の阿部正豊(弥七郎)に暗殺された、守山崩れと酷似している。村岡はこの守山崩れの伝承は、元康の死をカモフラージュするために清康の死として語られたのだと主張している。
 

そして元康の死を秘匿し、その身代わりとして立てられたのが、世良田二郎三郎元信であるとする。当時の松平氏の三河は、信長と今川氏という両大名によって挟まれていた。信康はまだ3歳の幼児である。そのような幼児が信長や今川氏と渡り合えるはずがないと考えた家臣団は、信康が成長するまでは、替え玉である世良田二郎三郎元信に松平氏の家督を代行させたというのである。


1562年(永禄5年)、元康に成りすました元信は、清洲城に出向いて信長と同盟を結んだ(清州同盟)。翌年、元信は松平家康と改名し、「二人の家康」から「一人の家康」となったという。

 

~転載終了~

 

村岡氏は、元康は1560年12月に暗殺されたと主張しています。城主が暗殺されると士気が落ち、信長に侵略・占領されてしまうと考えた三河国の家臣団は、元康の死を隠匿し、母親が同じで元康の面影がある元信を元康としたということです。

 

ただし、漫画本『忍者家康』では1561年~1562年の頃であると、少しずれています。

 

そして、元康の実子、信康が大きくなるまで、偽元康である元信に城主を代行させることにしたようです。

 

ところが、時は戦国時代。下剋上の世界。あっという間に世の中が変り、偽元康は信長と青洲同盟まで結んでしまった。そして、偽元康は松平家康と名前を変えてしまい、後戻りができなくなった、という流れのようです。

 

元康の実子、信康は、後に信長の逆鱗に触れ、切腹させられています。また、関ケ原の戦いに勝利した家康は、松平姓から徳川姓に改姓しています。これは、世良田二郎三郎元信という自分の出自を消すためでしょう。

 

その後、家康は、松平家の中でも徳川直系しか将軍職を継承できないというように変えています。全ては徳川政権を安定化させ、次に皇室を飲みこむためなのです。

 

家康すり替えが事実であれば、歴史を揺るがす驚愕の事実ですが、私が調べた限りでは、これは概ね事実のようです。

 

世良田二郎三郎元信は、金星系です。おそらく、金星系によってウォークインされたものです。元康とすり替わるために、計画的に登場してきたようなのです。

 

一方、本来の家康となるべきだった松平元康とは、月人が金星系に乗っ取られかけている地球を救うために、送り込んだ救世主だったのです。その最大の目的は、金星系である、時の権力者織田信長を止めるためなのです。

 

ところが、それを予知した金星系が世良田二郎三郎元信を派遣したのです。そして、巧妙に元康とすり替わり、なんと後に徳川幕府まで作ってしまう人物に大化けしたのです。いやぁ~歴史を変えるとは恐ろしい。このようにして歴史は大きく変えられてきたのです。

 

しかし、村岡氏の家康すり替え説には、一点だけ大きな見落としがあります。

 

それは、松平元康は死んでいなかったというこです。これはどこにも書かれていない情報です。これについては次回に書きます。こちらも驚愕です。歴史の真実は奥が深いのです。


 

最後まで読んでいただきありがとうございます。