日本人の神と人との対話関係。 | キラキラ星のブログ(【月夜のぴよこ】)

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日本の神って いわゆる全知全能のなんちゃらというのと違う感覚のものなんっすよ。

光孝天皇
「君がため春の野に出でて若菜つむ 我が衣手に雪はふりつつ」

これがわかりやすくていつも例にとるんだけど、これってラブソングだとおもわれているんだけど、神への誓い。

日本人は何かの願いをかなえるときには自分で自分へのノルマを課して神へ、「これを今からノルマとしてやるからやり遂げられたらお願いをかなえて。」という形でお願いをしていた民族なんだよね。

どちらかというと神がお願いをかなえるというより、オレががんばるために神に誓いをたてて、達成したらいいことおこってねという自分へのポテンシャルと高めるための神との契約を自分自身でつくりあげるためのもの。

この場合、雪がふって大変なんだけど、この春の野の草を全部刈っちゃうから時間内にできたらこの恋かなえてよねという誓いなんです。

だから、日本の神は人々に戒律をもとめない。戒律は自らつくって自らのポテンシャルを高めて現実の夢を達成する。神様はノルマを達成した人々をよしよしと遠くからながめて、えらいねーと言ってくれる存在。

それの一番伝統的なものが「大峯奥駈修行」ですやん。金峯山寺 や聖護院がおこなっているもので7日かけて大峰山からいせを巡る山をめぐってあるきとおし、7日で行き着ければ願いがかなういう自分への修行をかすもの。

それが仏教と融合してさらに過酷な千日回峰業などの業もあるんじゃないっすか?

やりたい人はどんどん過酷な修行をしてオノレを鍛え上げてきたわけです。聖護院なぞは歴代天皇陛下のお願い事をするときに皇族をまもって大峰山をあるいた寺、ちゃんと京都にまだありますやんw

だからね。参拝しないとゆるさんぞという8月15日の靖国踏み絵教なんてあり得ないんっすよ。

北野天満宮なんて受験の神様を参拝する人多いけど、あれだって受験生は神に参拝しないと落ちるからきてるんじゃなくて、がんばってるんだから合格させてよとお願いしてるわけでしょ??

日本人の血の中にすでに神道の感覚があるから、勝手に自分へのノルマ=勉強するとういのがあって、ちゃんとみててよね。ちゃんと勉強したら合格させてよねと言ってる。

そういう宗教なんですわ、日本神道。

だから神はおねだりするものじゃなくて、神とは対話して自分のポテンシャルを最大にさせるためのもの。そういう神をつくりあげたから日本人は勤勉で努力家なの。ほとんどの日本人が靖国踏み絵教に違和感をもつのも当然、日本の神社にはこの日に来なければならないという戒律はなかったのに、なぜ?って思うでしょ??

日本人は自らを律するために自分自身で掟やノルマや努力目標をたててそれを神にちかうために神社にいくもの。靖国などの神社だってそう、国を守り国を育ててきた神々に対して、私はコレをがんばろうとおもう。コレを自分の目標にしたいとおもうと対話しにいくんだから、期日をだれかに特定できるわけはないよ。神と人の対話はその人に必要なときになされるべきです。


だから「8月15日に靖国に参拝したオレ偉い!!」というのも「8月15日に靖国に参拝しないお前、売国奴!」というのも最初からおかしななはなし。

靖国にしてもそう言う形で日本を守ってくれた人に対して、オレもこれがんばるから応援してくれよなって感じで誓いをたてるためにいくのとかが良い感じですよね。


どちらにしても、靖国神社のお祭りは春と秋に例大祭、あとみたままつりというのがあります。ふつうにかんがえて、いついったらいいですか?と聞かれたらそのどれかですよね。

でも、ことしも靖国踏み絵教の皆さんが靖国神社に行かなかった人を罵倒することとおもいます。あーーー やだやだ。



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