『女神たちの午後』 荒巻義雄短篇集
解 説 大和田 始
疾風怒濤 一九七〇年から七三年にかけて、ほぼ二か月ごとに「SFマガジン」誌上に作品を発表しつづけたこの時期に、荒巻義雄の作家としての可能性の中心が発光している。そのスペクトルを定着させているのは『白壁の文字は夕陽に映える』や『柔らかい時計』などの初期作品集である。さらにそのうえ、「SFマガジン」掲載第二作「種子よ」は『神聖代』へと発展しているし、第四作「ある晴れた日のウィーンは森の中にたたずむ」は第一長篇『白き日旅立てば不死』へと展開しているのである。まさしく、この当時の荒巻義雄は飛ぶ鳥を落とす勢いにあったといえるだろう。
荒巻SFの可能性 荒巻義雄のSFの可能性については、小説に先だって「SFマガジン」に発表された評論「術の小説論」の中にそのいくつかの側面を見出すことができるだろう。ここで荒巻義雄はF派(ファンタジー・文学派)とS派(科学派)の間で交されてきた論争に終止符を打つべく奮闘している。荒巻義雄にとってF派とS派の論争は、いわば主題・内容・倫理などを基礎とする同一の地平での出来事に見えたのだろう。そうではなく、もっと別の地平、形式や方法について論ずべきではないのか。視点を転換すべきではないのか――カッコつけていえば(パラダイム・チェンジ)がここで求められているように思える。そこで荒巻義雄はSFの方法として”術”という考え方を提起する。それはカントの言う判断力のことでもある。おそらくは『判断力批判』からの敷衍[ふえん]なのだろう――。
医療の相対性 「医者は医学(科学)が供給する法則的な知識をもっている。しかし知識を持っただけでは、医者本来の使命ははたせない。医者は患者のなかに病的な現象をみとめ、診断し治癒させる仕方を案出しなければならない。このとき医者の前にあるものは、病気という事実と医学の知識である。知識の方は純粋で厳密だが、事実の方は混沌としていて複雑である。医者はこの二つの間にあって、〝当てはめ"の創造的能力を発揮せねばならない。だから、この世界は真か非真かの領々[誤植か]ではない。治る方が好い、治らぬ方が好くない、ということが支配している世界である......」
SFの相対性 医者をSF作家に置きかえて読んでみてほしい。患者は現実世界であり、病気は何らかの現象であるだろう。SF作家はこの二者の間に立って、科学を応用して解決をはかる のだ。解決できれば好し、できなければ悪し。SF作品とはその過程を定着させる印画紙である。言うまでもなく、結末がどうなるか判ってはいない。判断し、当てはめるという"術"の行為の作用によってどうにでも転びうるのだ。そして確かに荒巻義雄の作品はそのようなものとして立ち現われている。
現実認識・小説認識 ここで更に重要なのは、荒巻義雄の言うSFの中には絶対的なものが存在しえないことである。これは「術の小説論」のもう一つの眼目の現実認識と深くかかわっている。現代社会の物の考え方や見方について、この論文はこう述べている。「もはや、絶対的な神、神秘、霊的なものは存在しえない。(中略)本来は、形而上学的主題といえそうなものが、形而下的なレベルにひきずりおとされる。幸福は金儲けの技術に代置され、愛はセックスの技術に転換される」現代社会はこのように"術"化されていると荒巻義雄は見ているのである。テクノロジーは物的世界を席捲しただけでなく、心的世界にも深甚な影響をおよぼしてきている。ところが一般の小説はこのような現実を捉えておらず、「十九世紀的世界観や倫理観」に縛られているのだ。そのような地平からは〝離陸〟しなければならない。それを可能にするのが"術"を武器 とするSFである。
荒巻義雄とバラード 小説に対するこのような見方は、たとえばイギリスのニューウェーヴS F作家、J. ・G・バラードの見解とも一致するものである。しかし両者の書く作品は極端にかけはなれている。バラードのSF改善策が、特に一九七〇年代に作品の主題、内容に傾いたのに較べて、荒巻義雄はあくまでも小説の方法にこだわったからだろう。
深層から表層へ 絶対的なものが存在しない世界。相対的な世界。それは深層を欠いた表層の世界といってもよいだろう。SF作品は未来や異惑星や異次元の世界をえがくことも多いが、そのような作品では現代現次元の地球を舞台とする作品が読者に寄りかかって持ちうるようなリアリティ(深層)を確保することはむずかしい。多くの作家は過去から現在までに得られた知識の諸要素を仮構の世界に投影してお茶を濁すわけである。それはそれなりに一つの世界を実感させるものでもありうるし、有効性もあるだろう。しかしそこに倫理的・思想的問題の残滓[ざんし]がもちこまれると事態は一変し、作品のリアリティは失われてしまう。もともと薄っぺらなものであった作品世界が、ぺらぺらになってしまう。世界が理知的に割りきれるという幻想に屈服したためだ。
荒巻義雄とレム 充分に納得しうるほどのリアリティを未来社会に与えた数少ない作品の一つに、スタニスワフ・レムの『星からの帰還』がある。ここでレムは十の存在である未来社会を描出するために、一ないし二しかえがいていない。そのことによって読者には十の世界への想像が残される。少なくともそのように感じさせられる。 では、未来社会を描きうるかどうかは表現力の問題なのだろうか。過少に書けばよいのだろうか。もちろんそうではない。レムの成功は、彼が未来社会を未知のものとして扱ったことに由来しているだろう。 荒巻義雄の作品世界は、SFの常として、充分に薄っぺらなものであるが、彼はその世界を創造しつつ、自分には知りえないものとして突きはなし、専制権を主張せず、時には作品世界を裏切ることによって奇妙な存在感を与えることに成功している。これはレムとは全く異なる手法である。ここにはもはや深層はない。ただ表層だけが幾重にもかさなってあるのだ。
背後から表面へ 美術評論家の宮川淳の用いる背後ないし記憶という語は、深層にあたる語であるだろう。「ジャスパー・ジョーンズは記号を題材にえらぶことによって、作品を背後〉への無限の遡行から決定的に〈表面〉へもち来らす。タブローを星条旗そのものと同一化することによって、作品は〈背後〉のない純粋な表面になるのである。(中略) たえず〈記憶〉を打ち消してゆく時間論的な<現在>の永遠の自己運動の苦渋に満ちた軌跡は、ここではついに、完全に <記憶〉を拭い去った〈表面〉の現前にまで到達するのである」(『引用の織物』より)
荒巻・曼荼羅・鏡 深層ではなく表層があるということ。それは作品それ自体、ないしはその背後に、内容や意義がかくされているという考えを否定する。もはや荒巻義雄には従来の意味での内容や意義という概念はないのかもしれない。彼の作品は曼荼羅や十牛図や聖書として、一幅の絵画として、鏡として、記憶や背後を欠いた表面として読者の前に投げだされているにすぎな いのである。これは荒巻作品がテクストとして存在しているということでもあるだろう。
テクスト 作者にとっても、読者にとっても不透明なものとしてある作品。どんなに多くの読者の読みでも覆いつくせず、どんなに巧妙な作者の意図をもかいくぐる自己運動のテクスト。荒巻作品とはまさにそのようなテクストであり、しかも、作品はおのれがテクストであることを強烈に主張する。このような言い方が妥当かどうか判らないが、荒巻義雄は作品を書きつつ、書くことよりも読むことの方に精力をそそいでいるように思える。SF作家荒巻義雄は、作品世界と自らの理知とを対決させ、世界を裁断しようともくろみながらも、そのことの不可能性に気づいており、とりわけ『時の葦舟』などにおいて、結果的には作品の不可知性を表明しているといえるだろう。
文学装置 ここで作品は、もはやその主題・思想を内包したものとしてではなく、読むことを解読することを発動させる引き金、仕掛けとなっている。いわば、 一個の文学装置なのである。読者はテーマや思想を読みとることによる文学的感動というものを諦めなければならない。読者に残された楽しみは、そのような文学装置が我々の内部に芽生えている新しい感受性を共振させ ることであるだろう。仮りに名づけるとすれば、文学装置的振動というべきだろうか。
『女神たちの午後』 本書『女神たちの午後』は『時の葦舟』と似た構成をもっている。『葦舟』を天上篇・神話篇とするならば、本書は地上篇・世俗篇ということになるだろう。『時の葦舟』は徹頭徹尾、虚構で成り立っている。さらにその虚構は最後の中篇に至って壁の絵として否定・ 空洞化され、その中篇の世界も何者かの夢の中にあるのではないかと示唆される。世界を支える柱が次々に取りはずされていくような感覚、自由落下の浮遊感、これこそ荒巻作品を読む醍醐味[だいごみ]の一つだろう。ここで強烈に主張されているのは、世界を支える基盤は実体的なものではないということだろう。そしてそれは、我々の生きるこの世界の基底部に潜む虚無性でもあるのだ。『女神たちの午後』の諸作の舞台は、パリ、東京、 ローマなど現実の都市にとられている。我々は作品の世界を日常生活の外延として捉えているが、次第に異物が侵入してくる。異国という設定で安普請[やすぶしん]にすませていた作品世界の中に狼田丈太郎の絵、あるいは神話のパターンが入りこんでくる。 するといささか風俗小説的であった筋立てがにわかに活人画的活気をおび、逆に現実世界のほうが虚構化され、ついにはブラフマーの妻が登場して夢幻の方へと傾いてしまう。
しかし荒巻義雄は最終篇で、ありえたかもしれぬもう一つの選択を示すことによってそれ以前の作品を微妙なかたちで否定するのである。読者は少なからず当惑させられるだろう。いったいこれまで読んできたのは何だったのだろうかと。
このような浮遊感は荒巻義雄のSF体験を表現したものでもあるようだ。「術の小説論」に次のような記述がある。「僕たちはSFを読みながら、絶対的なるものの牢固とした基礎を失い、また、僕たちの実存の基盤を失い、ただよいはじめるのである」
そして我々も、荒巻作品に仕掛けられた鏡のトリックによって現実の表層をただよいはじめる......
(文中、敬称は略しました)