拾遺愚想 - 越境する妄想団 delirants sans frontiere
 
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西北勝重氏 追悼

​​​​​​西北勝重氏追悼    「埋火」 第18号 1992年7月発行

満洲国の官僚・カツシゲ
服部伸六

 それは、ひょっとすると、黒河だったのかもしれない。日記をつけていた訳ではないので記憶から消えてしまうと、もう思い出しようもない。西北勝重の詳細な履歴が、追悼号には載ることだろうから、そこでハッキリすることだろう。
 とにかく僕は、当時、日本外務省にはいりたての小役人だったが、ソ満国境に戦火がひろがるだろうという雰囲気を察して日本外務省は在モスコウの一等書記官に任命された松平康東(のち国連大使)をソビエトと満洲の国境視察に派遣したのだった。僕はそのカバン持ちということでついて行ったというわけ。
 ハルビンからバスに乗り北へ向かって行ったところが、初めに書いた国境の町なのだが、その名を思い出せない。とにかく、周囲を小高い丘に囲まれた草原のなかの北国の町に降りたったのだが、そこで県知事の出迎えをうけた。県知事は満洲人であったが、副知事は日本人。この組合せは、当時の常識だった。実力者は副知事であることは言わずとしれている。
 そのとき僕はびっくり仰天させられる。われわれの前で黒い制服の軍隊を指揮して歓迎のセレモニーを演出している青年、どう見ても見覚えがある。西北勝重副知事だったのである。
 式が終わるのを待ち兼ねて僕は副知事に近寄ったと思う。中学以来の再会だった。副知事は警察隊長を兼ねていて、治安の責任者だった。つまり歯に布を着せずに言うと、日本の傀儡政府である満洲国政府の存在を支える柱だったのである。こんなやり甲斐のある仕事を任されている友を、僕は羨ましく思ったのは当然のことだった。
 その晩、僕は勝重の宿舎に泊まった。たぶん、ウォッカを飲んで羊の肉のスキ焼きでも食ったに違いない。満洲の北の、河向こうでは、ソ連兵が動き回っているのが遠望できる町にきて昔の同級生に会うなどという、おおげさに言うと、世紀対面に僕は感動していた。
 勝重の官舎は小高い丘の上にあり、その晩の奥さんのもてなしは至れりつくせりで、もの珍しい部屋の調度品など記憶から消え去ることはない。とくに若き日の満洲国官僚の英姿は僕の目の底に焼きつけられていて、忘れることは出来ない。
 その肉体は、今はもう煙りとなってしまった。ああ。合掌。

           

[西北勝重氏の略歴は埋火には掲載されていなかったので、調べてみた。1912(大正1年)生〜1992年没 1925年満州国立大学院卒業 満洲国政府外交部通商局 ソヴィエト連邦チタ市に勤務 1948年宮崎県串間市福島高校教官 1951年宮崎県庁職員 1963年串間市助役 1971県議会議員 1974年串間市長 1982年再度串間市長。 ついでに、同誌に掲載されている追悼文を、勝手に収録することにした]


どうぞ安らかに
阿万鯱人

 昔、県に御世話になっていたころ、大先輩である西北さんと、一度だけ高千穂に出張したことがあった。
 たまたま埋火十六号に載った、井上靖の小説の題名を転借して書かれた西北さんの、〈私家版『おろしや国酔夢譚』〉を読み、遠い日の、高千穂の一夕を感慨深く思い起こした。
 高千穂の一夜は、私家版に書かれてあるウラル山脈のことや、東・アジア、西ヨーロッパという文字の刻まれた石碑········降りかかるように周囲を覆うダイヤモンドダスト (この言葉はその時はじめて聞いたという気がする)。また宮崎市北部にある八紘台 (現在平和台) の建立に際して送ったウラルの石のことなど········つまりそのと私家版に書かれた内容と同様のことを、西北さん独特の譬喩を交えた語り口で話し出され、それらは、潜在して持っていた僕のなかの、ロシアの風土への郷愁 (文学作品を通じて) みたいなものを一気にかきたてた。酔も手伝っていたからだろうが、その夜は肩を組みあい、デュエットで青春の歌を歌うところまで付き合わされる羽目になったことを思い出す。
 西北さんはその時、十九世紀から二十世紀はじめにかけて登場する、ロシア作家の名前をあげ、「僕は本当は文学の道に入りたかった········」と言われた。
 もちろん深々[しんしん]とした旅館周辺にただよう夜気や酒のせいもあったと思うが、たしかにこの夜は、行政家西北勝重氏ではなく、いかにもロマンチストと呼ぶにふさわしい、その昔の熱っぽい文学青年の一種モノマニヤックな風貌をさらけて見せられたという気がした。あれは三月に出た十七号だったか......編集後記に入院のことが書かれ、その後新聞紙上で死去を知り、あの時はそのようなかげは微塵も感じられず、御元気だったのにと思い、同時になにか悔いみたいなものが残った。
 それは平成二 (一九九〇) 年の八月、平田英徳さんの詩集「定点」の出版記念会が串間市の中村荘であって、僕も御邪魔したのだが、その時実に十何年ぶりかで西北さんに御会いした。まだマイカーで県外まで出かける話などされていた。
 閉会間際に、「今日は久しぶりだからもうすこし話そう」と言い、すぐくっつけるように、「昔、一緒に高千穂に行ったことがあったなあ」と言われた。
 僕は丁度宮崎に帰る車が待たせてあったこともあって、「まだこれから機会がありますよ」といって別れた。悔いみたいなものとは········訃報を聞いた時、僕のなかに同時に浮かびあがった高千穂の一夜とそれが重なり、当日せっかく引き止められたのに、十何年ぶりかの時間を埋めることをせずに、宮崎に帰ったことをそれは指している。
 〈私家版『おろしや国酔夢譚』〉や、<串間文学風土記>その他の作品は、いずれも包み持ちつづけていた西北さんのなかの文学工ネルギーが、一気に吹き出た結果の産物といってよく、ねがわくば、時期が来て、一冊にまとめられることができればいいなと思う。

どうか安らかにおねむり下さい。



西北さんの死を悼む
内田敬

 先日、西北勝重さんのご訃報に接し、私は筆舌に尽し難い程の衝撃を受けた。その一報を逸早く電話で知らせてくれたのは、福島高校での教え子・K君だった。西北さんもまた同校で彼等に数年間、教鞭を執られた。私がそこで初めて先生と相知ったのは、たしか昭和二十五年前後のことだったと思う。先生は私より十歳位年長で、担任教科は「社会」だった。私の教員免許も社会だったが、英語を担当させられていた。先生はよく外国語教育上の難点などを指摘された。その豊富な知識に感嘆したものだが、後程聞いたところによると、先生は大阪外語のロシア語科卒のエリートだとのこと。その辺の事情は、先生の “埋火” の絶筆となった “おろしや国酔夢譚” の内容で、さすがと納得される方も多いかと思う。先生は極めて磊落なところがあり、歯に衣を着せない調子で若輩の私などに処生訓や忠告を与えて下さった。先生と私の亡兄とは中学の同窓であり、亡兄の日誌にしばしば先生の記事が散見されたので、兄貴みたいな親しみを覚えていたことは否めない。
 その後間もなく先生は県庁の方へ転職され、その後任として私が社会科担当になった。奇縁と言えば、数ヶ月後西北さんがそれまで住んでいられた町営住宅を、新婚当時の私達に譲って頂いたこと。当時私の家内も同校で教師をしており、西北さんとは旧知の間柄だったので、家内を通じて住宅の交渉がまとまったらしい。
 先生も外地での戦争体験者であり、私もそうだった。戦後私は町内から衆議院議員選に出馬したO氏の応援演説を依頼され、県南各地を遊説、その苦い体験を西北さんに話したことがある。すると彼は「政治なんかに首を突込むべきじゃないよ。全くどろどろの泥沼なんじゃから......」と忠告された。そのご本人が後日、賢兄の地盤を継いで串間市長選に巻き込まれる破目になった。恐らくご本人にとっては、万やむを得ない事情があったに違いない。もし公務員として終結されたなら、きっと天与の文筆の才と共に天寿を全うされたであろうと、惜しまれてならない。
 先生は数多くの随筆を残された。その文体は、森鷗外のそれの如く、簡潔で荘重であり、時に博識ぶりが気になることもあるが、極めて歯切れがよい。特に私が興味をそそられたのは、“串間文学風土記” と “おろしや国酔夢譚” (いずれも “埋火” 誌上) だった。前者では、かつて武者小路実篤氏が大東村に「新しき村」を作ろうと、土地買い込みの算段をした経緯が物語られ、この点、阿万鯱人氏の作品 “一人でも村は村である”と随所に符合するところがあり、実に興味尽きないものがあった。後者は言うまでもなく、西北さんの生涯の点晴的佳品ではないかと思われる。
 先生の生涯のエネルギーは、あの青春期に光芒を放っていたのであり、死の直前に「余熱」としてそれが甦ったのではないだろうか。欲を言えば、あの青春をもっと掘り下げてほしかった。慎んで先生のご冥福をお祈りしたい。


文人政治家西北さんを惜む
平田英徳

「みなさん、ご卒業おめでとう。みなさんはおめでとうという意味がわかりますか。おめでとうというのは、これから新しく出発するということです········」
 昭和三十八年、市の助役に就任されたばかりの西北さんの、金谷小学校卒業式の祝辞の冒頭のことばである。式辞といえば決まって文書を型どおりに読まれるのが通例であるのに、西北さんは原稿なしで、卒業生に語りかけるという調子で、淡々と話される内容には実に味深いものがあった。それだけ豊富な経験と学識の深さからくる話題の広さは、文人政治家という風格を兼備えられていた。その時から私は、この人に随筆でも書かせたらきっといいものが出来るに相違ないと思っていた。その予見は当っていた。
 それは昭和四十九年、串間市長に就任されてから、毎月発行されている市報に、市長自記筆の「炉辺閑談」という連載随想が出された。市報といえば内容が無味乾燥な役所式なものが多い中で、この随想がひときわ紙面を柔和なものにしてくれた。肩肘張らない花鳥風月に因んだ日常身辺の話題を簡潔で切れ味のある文体は、市民の間に喜ばれ好評であった。市報が出るたびに、なにをおいてもこの欄に目を通すのが楽しみのひとつであった。市長二期に亘ってこの随想は欠かすことなく八十九話に及んだ。この「炉辺閑談」は市長を退かれてから、集大成して昭和六十二年五月に出版された。政治から離れた西北さんは、私達の「埋火」の同人に迎えられ、その文筆活動には著しいものがあった。特に「串間文学風土記」は串間文学を語る上で、貴重な記録作品であり、県内外からその資料内容の豊富さに衆目されていたにもかかわらず、連載は五回で中止された。読者からぜひ完結させてほしいという要望が、私の手許に寄せられた。
 その頃から西北さんの体調が勝れなかったのか、平成二年十一月、風邪をこじらせ、精密検査の結果肋膜に炎症をおこし水液が溜っているので、その液を抜き取らねばならないために、鹿児島県曽於郡医師会館に入院された。約一か月余りの治療で退院された。
 その後、風土記を書き続けることは、体力的に無理だから、当分休み、体調が整ってからにしたいということであったが、健康の妖復を待たずに、昨年の十一月再入院された。さっそくお見舞に上がったとき、西北さんは、ベットから体を起こされて窓際の方を向いておられた。
 「先生、いかがですか」と声をかけると、西北さんは吃驚されて、私達の方に向けられた西北さんの顔から肉が落ちて、潤いがなかった。
 「あゝようこそ、ありがとう、どうぞ」と椅子を勧められた。
 「平田さん。ぼくはね、肺癌ですよ」といきなりおっしゃった。私は返す言葉もなく、本人より私の方が唖然としてしまった。それからいつもの調子で、肺癌などについて話された。
 その頃、長いこと脳梗塞で入院されていた同人の川畑末好さんが、二月二十二日亡くなられた。その悲しみもとれないうちに。同月の二十六日、後を追うように西北さんが永眠された。
 旅好きの西北さんは、戦前は旧ソ連外交官として、戦後は郷土の福島高校教諭を経て県庁入り、観光課長、県教育次長、串間市助役、県議、市長二期を務められてこられた。その幅広い経験と豊富な学識を生かした文人政治家であり、ロマンチストでもあった。暇さえあれば、旅と読書三昧の生活で、現状に甘んじることなく、何んでも挑戦してやまない探求心は衰えをしらなかった。その西北さんを亡くして、今改めて串間市にとってかけがえのない貴重な方を失なってしまい痛恨の念に堪えない。せめて「串間文学風土記」だけでも完結してほしかった。それが悔まれてならない。

「炉辺閑談」は宮崎県立図書館に所蔵がある。「埋火 」も1995年創刊号から収蔵されている。ただいづれも禁帯出である。

 

アフリカの詩文学の潮流  服部伸六


 アフリカの詩や文学作品を読む場合、欠くことができないのは、その作品を生んだ背景の理解であろう。
 他のどこの文学の場合でも、このことは言えるとしても、アフリカに関する場合はなによりも欠かすことのできない原則である。
 なぜかと言えば、アフリカの文化状況は、この大陸を植民地として荒廃させたヨーロッパ諸国でさえも理解は不十分であったからである。まして、まったく係わりなかった日本人に、未知の暗黒大陸といわれたアフリカの文学の深い理解が得られる筈はない。
 そこで私は、ごく簡単にその歴史と伝統を紹介することから始めることにする。

    伝承とその移り変わり

 アフリカは大きく二つに分けられる。
 地中海に面した北アフリカのアラブ・イスラムの、いわゆる「白アフリカ」と、サハラ砂漠から南に位置する「黒アフリカ」とである。私は、そこで、この二つの文化圏を並行して記述していくことにする。
 黒の方からまず始めることにしたい。
 1956年パリのソルボンヌ大学で開かれた第一回黒人芸術家大会でベルナール・ダディエというコートヂボアールの詩人が報告を行い、次のように述べている。この詩人は、私がコートジボアールに住んで居た頃の知人で、まったく素朴そのものの人であるが、いまは文化大臣を勤めている。この詩人の詩は、あとで紹介することにしたい。
 「昼の仕事のあと、休息に集まった家族に話をするのが、伝統の一部となっています。というのは、昼間から話すと、家族を失うというコトワザがあるからです。昼に話すことは、仕事の邪魔になるので、《貧乏は怠惰の姉》というコトワザのとおり、夜が伝承を次の世代に伝える時間となるわけです。火の燃える雰囲気、月の光、野獣たちの叫び、コーラスに変わる唄、足拍子、それにつれて身振りを伴った語り、そいう雰囲気が心を異常に感受性の高いものにみちびくのです」。
 伝承の内容については省略するが、日本でも古代にあってはそういうものであったことを、思い起こさせる話である。黒アフリカの伝承に見合うものが、アラブ圏の北アフリカにもあるにはある。アラブ人が進出してくる前のこの地域に住んでいたベルベル人たちの伝承である。
 今のところ一般に認められている説では、この民はアラビア半島の南端の「しあわせのアラビア」と呼ばれる、現在のイェーメンにあたる地方から移動してエジプトを経て、そのあと長い年月を経てサハラの南を迂回し、北の地中海に達したものとされる。紀元前二千年以上も前のことである。
 アラブ人とはもともと同族ではあるが、歴史の長い間の差異のため、その文化にはかなりの相違があるように見える。現在ではアラブ人との混血により見分けはつきにくくなって
はいるが、北アフリカのマグレブ (日の沈む国という意味) では、その約60%はベルベル系だといわれる。
 私も何回かアトラス山中に迷いこんだことがあるが、そこは世界から切り放された別天地だった。そこで、30年もべルベル人たちの中で暮らしたフランス人の詩人ルネ・ウーロージュは、ベルベル人の一人に言わせている。
 「あんたがたヨーロッパ人は、おれたちに光をもたらしたと考えているが、しかし本当のところは、おれたちをあんたがたの暗闇に引きずり込もうとしているんじゃろう」。
 ヨーロッパ人が造り上げた今日の文明は、ひょっとすると暗闇の文明なのかもしれない。アトラスの山中にいると、そんな思いに引き込まれる。そんなことを考えながら山村を巡っていた私の眼のまえを一台の馬鹿でっかいアメリカの車が石ころに躓きながら走っていった。通りがかりの農夫に尋ねてみると「あれはニューヨークで金持ちになった部落の人の里帰りさ」という答えが帰ってきた。
 何という皮肉だろう。私は驚いて唸ったものだ。

     植民地主義の搾取に抗するアフリカ

 (古代から一足飛びに近代へはいる。というのはアフリカにもヨーロッパの中世に比すべき王朝の栄えた都市文明はあった。たとえばソンガイやマリの王国、ナイジェリアのベナン王国エチオピア帝国などがそうであるが、詩文学の分野では伝統の枠からは出ないので、私の記述からは省くことにする)。
 1960年の「アフリカの年」、すなわち諸国が競って独立した年のことであるが、その前後からアフリカの前衛となった若い知識人たちの間で、とくに詩人たちの間で、自由と解放の戦いが激しくなっていった。サルトルが「黒いオルフェ」の中で鋭く指摘している通りである。
 口火を切ったのが、ネグリチュード運動であった。ネグリチュードとはネグロという黒を意味する語幹に、状態を示すチュードを加えた新語で、「黒人らしさ」と要約することが出来るかもしれない。要するに黒人としてのアイデンティティを認識しようと言う運動である。
 その指導者たちは1930年代、同人誌「黒人学生」に拠った若者たちであった。アフリカ出身ではないが、奴隷の子孫であるマルチニック島生まれのエーメ・セゼールと、セネガル国籍のサンゴール、それに、やはりカリブ海の奴隷の子であるレオン・ダマの三人がその中心であった。
 セゼールを発見したのはアンドレ・ブルトンであった。ブルトンは第二次大戦の末期にマルチニクのキャンパスから出てきたとき、本屋の店頭でセゼールの詩を発見して、フランスへ紹介したのが、セゼールを世に出したきっかけになった。ブルトンがセゼールの才能を認めたのは、サルトルが指摘している「異質なフランス語」の使用法であるが、それをブルトンはシュールレアリスムの運動に結びつけて捉えていたのである。そういう要素のある詩句をセゼール代表作『帰国手帳』の中から拾ってみよう。

········そうして黒人らしさが立っている
坐っていた個人らしさが
期せずして立つ
船倉に立つ
船室に立つ
甲板に立つ
風のなかに立つ
陽の下に立つ
血のなかに立つ
立つ
そして
解き放たれて
立つが 自由ではあっても哀れな狂女ではなく
流れ漂う海の貧窮でもない
········
そして清められた船は崩れる波の上を堂々と進む

 詩人はネグリチュードを船に見立てているのだ。そしてその船は、黒人の故郷であるアフリカ文化の源泉への帰還を暗示している。
 いささか難解な詩集ではあるものの、マルチニクの黒人たちの悲惨な暮らし振りを激しいコトバでぶっつけて、黒人の権利を主張している。彼はこの主張にそってフランス共産党に入党し、現在ポール・ド・フランスの市長になった。現在は、たしか党を抜け出してはいるが、相変わらず市長ではあるはずである。
 サンゴールはセネガルに帰ると、大統領選挙に打って出て初代大統領となったが、五年ほど前、世代交替して職を譲り、今はフランスのノルマンディの妻の故郷に隠棲している。レオン・ダマについては日本では、ほとんど知られていないが、アフリカ人式のユーモラスな唄い口で、わかり易く、私はとても好きなのだが、アフリカに住む人ではないので、ここでは取り上げない。

     解放後の混沌

 「地に呪われたる者」の著作者で有名なフランツ・ファノンは詩は残していないが、その行動をみると、まさに詩人の血を感じさせる。アルジェリアの独立戦争に軍医として参加して若くして死んでしまった彼が、直接、詩について語っているのは、ギニアの詩人にして舞踊監督ケイタ・フォデボだけだろう。
 フォデボは舞踊の台本を詩で書いている。ヨーロッパの戦争に引っ張り出されたギニヤ人の戦死と、その死を悼む故郷を舞台にした場面が展開されている。この作品について、ファノンは次のようにコメントしている。
 「植民地化された国では原地人を戦野で使い古した挙句、独立運動を打ち砕くためにふたたび利用するのだ」と。そのとうり、旧宗主国の政府は旧軍人に玩具のような勲章をくれてやり、飴玉のような年金をあたえて、古い体質の反動的な政府の安定をはかってやった。「やった」と過去形で私が書くのは、少なくとも、1970年代まではそういう態度であったからだが、最近ではそうとも言えない。たとえば、フランスの社会党政権はアフリカの民主化に力を入れているからである。フランスの国益に反しないかぎり。
 ギニヤ舞踊団は日本にも二回ほど来て公演している。私も一回は見ているが、たしかその時はフォデボの姿は消えていた。彼は独裁者セクー・トーレの反政府陰謀の嫌疑で獄死していたのである。
 もう一人の独立闘争の詩人として上げねばならぬのは、マダガスカルのジャック・ラベナマンジャラである。
 アフリカ大陸の尻にぶら下がる格好のこの島は前世紀からフランスの保護領になっていたが、大戦後の世界の変革運動の嵐のなかで自由をもとめる国民の声が高まっていった。1948年に全国で反仏のデモが起こった。そのデモを指導したとして逮捕されたのが、若いラベナマンジャラだった。彼は獄中で「アンツア」という愛国詩を書き発表した。この詩集の題名はマダガスカル語で伝統的な「歌謡」を意味するということである。
 テーマは祖国への愛と、近代的な意味での自由とを結びつけた愛国詩である。ポール・エリュアールの有名な「自由」とどこか似たところがあるのは、偶然の一致だろうか。

しあわせで 解放された 島よ、
ぼくの名はお前の名にもつれ合う
そして合体はいつまでも解けない
死の国までも続いて行く、
しあわせで 解放された 島よ
自由よ!

 ラベナマンジャラは死刑の宣告を受けていたが、島の独立後は自由の身となり、経済大臣など要職をつとめた。しかし現在の社会主義政権とは言いながら、独裁的なラチラカ政権が1975年に発足すると、追われてフランスに亡命。現在は著述に日を送っているということである。
 独立から30年後の今、アフリカはますます貧窮化へと落ち込みつつあるようにみえる。アフリカ人自体に問題もあるかもしれぬが、しかし、指導者たちの責任は大きい。というのは、これまでの指導者の多くは国家財産を勝手に私有して、ヨーロッパに不動産を買ったり、スイスの銀行に預金を持ったり、国の開発には貢献していないからだ。
 しかし、今、若い世代が育ちつつあって、民主化のうねりが波うっている。私はまだこれら若い力が発する詩のメッセージには接していないが、これから生まれてくる新しい時代に期待をかけている。
 新しい世代は、まだ芽生えぬ若芽であるかもしれぬが、その樹液には、先に上げたベルナール・ダディエが歌った詩句が混じっているに違いない。

神様ありがとう 黒人に生んでもらってありがとう
········
白という色は かりそめの色
黒と言う色は 変わらない色

世界に向けてぼくがほほえみかけると
まっくらな夜が明けそめる
                   (「日々のロンド」より)

     激動の北アフリカ

 ヨーロッパのルネサンスを準備したスペインのアラブ文化繁栄の時代にいた優れたアラブ詩人たちの詩文学には、勝れたものが多い。私はアラブ語を解さないので、詳細は知ることは出来ないものの、フランス語に訳されたものをみても、十分それは鑑賞に値する。
 次にグラナダの最後の王朝が滅びる直前に、この光輝く街を訪れた詩人イブン・サラ・ド・サンタレムが歌ったという詩句を引用しよう。

この国の人よ、祈らぬがよいぞ、
禁じられたこともあきらめぬがよいぞ、
そうすれば、あんた方は地獄へゆける。
北の風が吹きすさむとき
火がぬくぬくと暖めてくれる地獄へだ。

 皮肉たっぷりグラナダ人の腐敗ぶりを歌にした詩人の史眼には脱帽だ。14世紀と15世紀のアラブ文化は見直されてもよいのではないだろうか。

     アルジェリアの独立と詩人たち

 そこで、いきなり、現代へ突入することになるが、何といっても主題はアルジェリアの独立戦争を語ることになる。この解放の戦いには独立闘争と同時に革命闘争と言う側面があった。というのは、オットマン・トルコの支配から引き続いてフランスの植民地支配を耐えてきたアルジェリアの長い屈辱の時代をようやくはねのける機会を目のまえにした国民の希望に沸き立ったのが1950、60年代だったからである。アルジェリアの解放戦で詩人が数多く生まれているが、なかでも美しい詩を残しているのはモハメッド・レブジャウイ。彼は1926年にアルジェ生。1957年の11月1日の万聖節の一斉蜂起に参加している。31歳の時である。

    おれたちの旗
おれたちの血まみれの手は
天高く挙げられる
それは掴みとるためだ
月のかけらを
それから 血の色をした
星を 掴みとるためだ

 アルジェリアの国旗は三ヵ月が星を掴みこむ格好の図案が中心に据えられている。そこから、単純で直接的で、もってまわったものでない力強い言葉が奔出するのだ。
 このような詩法はアラブ文学の特徴であるが、アルジェリア切っての大詩人と言われたカテブ・ヤシーヌの場合にも通用している。
 この詩人については、日本でもいくらか知られていると思うが、彼は1989年10月28日、白血病でなくなった。60歳だった。その死のすこしばかり前、ある雑誌のインタービュに答えてスターリンについて次のように素直に語っているエピソードを紹介しよう。
 「30年まえのことですが、私が私の子供を連れて西独の街角を散歩していたときのことです。回りの身ぎれいに着こなしたブルジョア紳士たちを見てる間に、ふといたずらっ気を出して子供を呼んだんです。「スターリンこっちへ来いよ」と呼ぶと、回りの歩行者が一斉に振り向いて、脅えているのです。本当の名はハンスというのですが、私は脅えているのを見て面白がったというわけです。
 だからといって、私がスターリンを非難しているとはとらないで下さい。私はスターリンが好きですし、尊敬してさえいます。それが私の立場なんです。私はソ連には何べんも行っていますが、多くのスターリン好きに出会っています。でもムッソリーニ好きのイタリア人とか、ヒットラー好きのドイツ人とかに比較されてもらっては困りますよ。」

     混乱するアルジェリア

 アルジェリアの詩人でもっとも代表的な詩人にはホーチミンのことを歌った「ゴムのサンダルを履いた男」など、代表作は多い。
 カテブ・ヤシーヌはしかし、独立後のアルジェリアでは詩よりも、演劇活動に精を出していた。だが、その立場は政権党のFNLの側にはなく、いつでも自由と人権を主張する反体制の側にいた。それでも政府はヤシーヌの人気には気兼ねして、彼の劇団に対して資金の援助を拒むことはなかったということである。
 ところが、指導者の独裁的傾向が激しくなり、政府高官の汚職が非難されはじめると、イスラム原理主義を奉ずる国民救済戦線 (FIS) が民衆の支持をえるという民主化が国の政治を揺るがしはじめた。じじつ、一家十数人が狭い部屋にうごめいて暮らしている時、お偉方たちは広い別宅で贅の限りをつくすという不公正はゆるされてはならない。しかし、一方では近代的合理主義に逆行する政教一致の時代錯誤思想が政権をとったとしたら、その被害も恐ろしいことになろう。今のところ、インテリや文学者たちは政府にもFISにも批判的にみえる。そういう立場を取っているのが、最近パリでベストセラーになっている小説「生きる苦しみ」の作者ラシード・ムミーニである。
 モロッコの詩人で、これも一昨年フランスのゴンクール賞をもらった小説を書いたタハル・ペンジェルーンの名も上げねばならない。いずれもマグレブの現代社会をありのままに描いた優れた作品である。
 地中海を挟んで向かい合う北アフリカの国々では、東欧やソ連の独裁体制の崩壊にとまどい、まだ自分たちの未来の地平線が見えてこないというのが今のところの現実であろう。■


「詩人会議」     1992年6月号掲載


 

西都の古墳群

2016年3月21日 

本日は親戚を案内して、久しぶりに西都の古墳群へ。前方後円墳の方の部分が三角錐のようにとんがっていて、近頃韓国で報告されているものと同じであることに気づく。また円墳の下に地下式横穴墓があることにも気づく。古田武彦が大阪の巨大墓の下には前の権力者の墓があるのではないかと幻視したことを思い出した。

水田喜一朗!

2016年6月25日 

 国会図書館の複写サービスに昔の『詩学』がようやく登場したので、ブランショの「ルネ・シャール論」を註文してみた。訳者はシャールに傾倒していた水田喜一朗。一週間で送られてきた。

 高校か大学に入りたての頃に読んで感激した初めてのブランショであったが、今読んでもなかなかに難解で、意図するところを感受しえているのか、全くおぼつかない。

 論中のシャールの詩の一編は

 「最初に訪れてきた

 存在[もの]」

 と訳されている。これが『焰の文学』では

 「存在

 初めに来るもの(全詩集版では最初に来た者)

となっている。水田訳は言葉の動きを感じさせる訳だと思う。

 『焰の文学』の別訳と対照してみると、総じて水田訳は原文の意を伝えようと長々と訳しているようだ。

 

 水田喜一朗を検索してみると、天童大人さんの2008年のブログ記事に、仏文学者の後藤信幸さんから、本にできる分量の水田訳のシャールの詩をもらったとあるので、メールを出してみたが、送達不能で返されてきた。

 ああ、水田訳のシャール詩集が読みたい。原文で読めればいいのだけれど。

「きみを知るまえには、ぼくは食べてもひもじかった、飲んでも渇きがとまらなかった、善も悪もどうでもよかった、ぼくはぼくではなかった、ただぼくの間近にいるにすぎなかった。」

 この「きみ」は直接的には女性だろうが、あるいは詩人自身かもしれない。また神さまと考えることもできるし、ルーミーのようなスーフィ詩人の作だといっても通るだろう。

法事の話題

2017年3月6日 

 又吉が250万部売れたのに、モディアノが1万部なのはおかしい。  (親戚の人がモディアノの翻訳をしていた)

 「怪樹の腕」の電本の印税が100円だった。  (伯父の創作翻訳が東京創元社から出た)

 私の訳本が出るとしても3千部いかない。   (その後「ヴィリコニウム」はX000部出た)

 

 おじさんの法事の話題。

識字障害に新たな光?

2017年10月19日 

 識字障害の人は、光を感受する細胞が両眼とも同じパターンで並んでいる。そのため同一の像が生成されて、脳が混乱する。

普通の人は細胞が非対称的で、一方の像をもう一方が乗っ取る。

 手に右利き左利きがあるように、眼にも利眼があり、多くの人は右目が利眼。利眼は脳につながる神経が多い。像の信号は桿と錐で感受される。錐が色を担当する。

 錐は多くが網膜の中心くぼみにあるが、青の錐のない小さい穴がある。普通の人の利眼のその穴は丸く、反対の眼はいびつ。識字障害の人の眼ではどちらも丸い。どちらも利眼と見なされない。

 この非対称性の欠如が識字障害の原因。

 高速で点滅するLEDを使うと識字障害をなくせる。

 

ガーディアンの記事。

 

 

モオリス・ブランショ

2019年7月23日 

モオリス・ブランショ   ルネ・シャール

 

 ぼくらが好んで答えようとしたものは、ものいわぬさまざまの質問や数々の運動の準備に対してだけのことだったらしい。ところが起ったのはあの即興や宿命的な違反などであった。

 解き明かせぬ、そして正体不明の無限。近よりながら近よれぬ確立した全体。とりこにされた空気の中で吟誦する火ともいえるかしこのような火のようなもの。

 時が近づく、説明できぬものとして止まりつづける術を知っているものだけがぼくらを納得させることのできる場所に。

 忍耐力を保持し、煙を拡散させるために広々とした自我にむけて未来を投げかえすのだ。

 土地よ おまえはおまえは粉砕し埋葬し掻きならすのだ! ぼくらが忌避するものは そのあつかましさのために無為にされているのだが、おまえから猶予を手に入れることはできぬだろう。

 死がぼくを受け入れるはずの夜は平坦でどこにも傷をつけていないだろう。かつて神がみにより分配されていたシロッコのほんの少しはぼくから生まれでた最初の人、とは別の、さわやかな息吹きとなってゆく。

 この人の抗議の申し立てが終るまで頂上でバラを保持しつづける。

 

——訳者はおそらく水田喜一郎さんです。

「カメラを止めるな」雑感

2020年2月8日 

 テレビ欄を見ていたら「カメラを止めるな」がまた放送されていた。

 ゾンビドラマを生放送するという企画がそもそも狂っているけれど、本篇は30分余で終わり、それからはメイキング映像になる。これはゾンビ映画でもなければ映画でもなく、漫才のようなメイキングの面白さを狙ったものだろう。

 表面的なトリビアにこだわり、その追求で満足するという意味で傑出した作品かもしれない。

 トリビアの愛玩という意味では、近頃増補版のできた「この世界の片隅に」も同様だ。ここにドラマはなく原爆の直前の広島の町を再現しようという執念だけがある。

 映像は何らかの反映、あるいは想像力をはばたかせる種子ではなく、その映像に固着する熱狂的なファンのためのものであるようだ。想像力はフィルム映像そのものに固着している。

 古谷実のマンガが都市の底辺の労働者の地を這うような想像力でつくられ、主人公たちは確かに現在の日本に存在していて、似通った感情を抱いているかもしれないと思わせ、奇想天外な破滅に向かっていきながら、さまざまな想像を働かせてくれる作品になっているのとはベクトルが逆転している。

 てなことを考えました、◎

「ユービック」かよ!

2020年5月2日 

 先月、義兄が死亡して、火葬場混雑のため葬式は2日延期、葬儀社の倉庫の中の極小カプセルホテルに冷蔵保管された。「ユービック」かよ! というたたずまい。とりあえず般若心経を唱えた。

テレビドラマ「仁」

2020年5月3日 ·プライバシー設定: あなたの友達

友達

 再放送の「仁」を観た。途中から主人公がタイムトラベル理論を神器くさく論じるので、嫌になったが、歳の功で何とか最後まで観たよ〜。龍馬を演じる内野くんの快演が爽快。しちめんどくさいSF理論はアメリカのSF作家に任せて、こちとらは与えられた状況の中で最善を尽くす姿を見たいものであ〜る。

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