今日は母の葬儀でした。
ずーっと「ごめんなさい」と「ありがとう」を
繰り返していました。
お盆の投稿で、亡き母の話を書きましたが
今日はその後、私達家族の所に来てくれた母の話です。
長くなりますが、私の覚書でもありますので、流して下さって結構です
10歳で産みの母を亡くし14歳で今の母を迎えました。
思春期真っ只中の私は、継母を受け入れる事が出来ず
さらにひねくれました
バイト三昧だった日々はお金の為でもありましたが
そんな父と母を見たくなかったのも正直な所でした。
真面目ヤンキーとでも言いますか、中途半端に横道にもそれました。
どんな気持ちでそんな私を見ていたのか、想像しただけでも胸が苦しくなります。
何も怒りませんし、注意もされませんでした。出来なかった…が本当でしょう。
母は、自分の子供を産む事はなかったのがまだ私の中の救いでした。
それでも、自分の子供の様に育ててくれ、嫁入り道具も「お父さんには内緒やで」と言い、出来る限りの支度をしてくれました。
早くに結婚をし孫が産まれると、当たり前の様に3人の子供達を平等に可愛がってくれました。
子供の運動会は、必ず得意のお寿司を作って見に来てくれました。
頭では感謝をしていました。苦労かけた事も、結婚して親のありがたみを感じ、子供を持ってさらにお世話になり、いつも休める場所、時間がゆっくり流れる場所を与えてくれました。
私も苦労かけた分、恩返しをしようと色々やったんだろうけど、何をしたか今はあんまり覚えていません
ひとつ、どうしても言えなかった事があります。
それは、「お母さん」と呼ぶ事です。
これだけは言えなかったんです。
言ったら、亡き母の存在をなくしてしまうようで。
でも、言えなかった事を今日は
何度も「ごめんなさい」と「ありがとう」を繰り返し涙が溢れてきました。
その母の生き様は、あっぱれな人生だと、この人は本当に凄い人だったと改めて感じました。
母方の親戚からは、「百合栄ちゃんが良くしてくれるっていつも喜んでいたよ、ありがとう」
と皆から言われましたが、私は恥ずかしかったです。
だって、母とも呼ばず、若い頃は苦しめてしまっただろうに…それを顔に出さない明るい人でしたから。
亡き母の法事なども、しっかりと守ってくれました。
元々足が悪い人で、小さくて細い人でしたから体力が無く、身の回りの事が出来なくなり施設でお世話になっていました。
皆さんから慕われ可愛いおばあちゃんになり寂しいだろうに「周りの人が良くしてくれる」と頑張ってくれていました。
コロナ禍になり、面会も出来ないままの最期になってしまいました。
81歳で老衰で眠るように亡くなった事が、家族にとって本当に有難いことでした。
もちろん、もっと生きてほしかったけど、母が選んだ最期はあっぱれとしか言いようがありません
長くなりますので、続きます。