90歳おばばの言いたい放題 (25)たら・れば その2
人生で受験の次の選択は「就職」と「結婚」でしょう。短大の掲示板には大手の銀行やデパート、商事会社からの求人がズラリと貼られ、級友たちの多くは次々に応募して就職先を決めて行きました。(その後その又多くが職場結婚をして幸せな人生を送りました)その頃の私の興味の対象と言えば「英語」と「演劇」。教師の夢は諦めたけれど何か英語を生かせる仕事に就きたい、と思う一方で中学・高校・短大とずっと演劇部だった私には舞台で演じる楽しさも捨てがたいものがありました。中・高の1学年下で演劇部でも一緒だった吉行和子は卒業後迷わず俳優座の養成所に入り、その後大成しましたが、うちの父親がそういう世界を許すはずがないことを私は知っていました。短大の西門の入り口には出来たばかりのモダンな建物があり、「AVACO・基督教視聴覚センター」と書かれていました。(AVACO =Audio Visual Aids Committee)そこが短大卒を1名募集していることを知り応募しました。高校時代から銀座教会の会員で受洗もしていた私には興味のある場所だったのです。アメリカから送られて来る聖書を題材にした映画やスライドを日本語に翻訳して全国の幼稚園や教会学校に貸し出しをしたり、オリジナルで人形劇や紙芝居やラジオ番組の制作などもしている機関でした。まだラジオの時代で、ようやく民放のテレビ局が開局し始めた頃のことです。アメリカからの最新の機材を揃えた立派なスタジオもあり、小さなカフェも備えたとてもモダンな所でした。仕事は翻訳と英文タイプ。お給料は大学卒が1万円で短大卒は7千円。当時の世間の相場より2割くらい低かったのですが、営利会社ではないので仕方ありません。英語が活かせるのが嬉しくてそこに決めました。職員は男女合わせて12人ほど。とても和やかで家庭的な雰囲気で楽しかったです。2,3年後にはアメリカへ1年間プロデューサーの勉強に行かせてくれるという話もあったのですが、すでに在学中に婚約をしていた私にはとうてい受けられない話でした。 その時結婚よりもそちらを選んでいれば、その後続々と開局したテレビ局のどこかで草分け的な女プロデューサーになっていたかもしれません。しかしその頃自分に何の自信もなかった私には、それよりも早く自分の家庭を持ちたい気持ちの方が強く、結局そこは1年で退職して21歳で結婚をしました。その後翻訳家となった夫の助手としての滅茶苦茶に忙しい生活の中で家事と子育てに追われる日々となり、やがて40代で離婚となったわけですが、3人の子どもが持てたことは何よりの幸せでした。<90歳・やはり・愛(メ)でたいシリーズ参照>離婚後は一家の大黒柱となり、英語塾を開いたり、予備校や学習塾の講師、日本語学校の教師などを経験する中で自分が教師に向いていたことを発見しました。そしてだんだん自信を持てるようになり、自分の中の知らなかった部分が出て来て新たな自分を発見するにつけ「たら・れば」とは縁のない人生になって行きました。60代で一人暮らしを始めてからはますます決断力、行動力が増し、誰にも相談することなく自分の直観で物事を決めて生きるようになりました。「自信」とは「自分を信じること」と知ったのもその頃のことでした。間もなく91歳になろうとする現在、何も悔いることがない日々を送ることが出来るのは本当に幸せなことと思っております。全てに感謝です。