言葉は生き物なのでだんだん使われなくなって「死語」と言われる運命をたどる言葉もあれば、次々新しく生まれて来る言葉もあります。
ここ2,30年の間に生まれ、普通に使われる言葉となったものの中でいちばん種類が多いのが「ハラスメント」でしょうか。
セクハラ、パワハラ、カスハラ、モラハラ、妊ハラなど、先日の新聞には30種類くらいの〇〇ハラという言葉が並んでいました。
確かに一言で状況を表すにはとても便利な言葉ですが、あまり細かいことにまでハラスメントをつけるとどんどん息苦しい世の中になってしまう恐れもありますね。
何でもtoo muchには気を付けなければね。
ほかに「教育虐待」なんて言葉もあります。
昔はただの「嚴しいしつけ」で通用していた状況です。
それが傍で見ていてもtoo muchになった時、この言葉は状況を表す言葉としてピッタリというわけです。
長い説明は要らないってことですね。
この間は又新しく「宗教的虐待」というのも生まれていました。
親が新興宗教にはまって、子どもの頃から集会などに連れて行かれてその集団から抜け出せない苦しみ。あるいは親が多額のお金を寄付したために経済的に苦しんでいる子どももいます。
他に「親ガチャ」っていうのもありますね。
でも一方で子どもの方が親を選んで生まれて来るって説もありますから、その場合は「子ガチャ」もあるかも知れませんね。
昔北野タケシさんの子どもの頃をドラマにしたのをテレビで見たことがあります。
お父さんがペンキ屋さんか何かで、タケシが「おいらこんな家になんか生まれて来たくなかった!」と言うとおっかさんが「こっちだってお前みたいな子どなんか産みたくなかったよ!」と言い返すシーンがありました。
親ガチャがあるなら「時代ガチャ」ってのもあっていいと思うんですよ。
むしろこちらの方が深刻かもしれません。
個人の力ではどうしようもない「時代」というものが相手ですから。
例えば戦国時代の女性たち。
戦略結婚で自分の意志とは関係なく嫁に行かされ、人質になったり自害せねばならなくなったりしました。
さかのぼって平安時代の女性たちは日がな一日短歌を詠んだり琴や貝殻遊びなどで男を待つだけの日々。どちらも身分の高い場合で、平民は一日中ぼろを着て働いていたでしょうけれど。
また大正の終わりから昭和の初め頃に産まれた男性たち。
太平洋戦争に駆り出されて学業半ばにして海の藻屑と消えたり、南方の島で戦いもせず飢えに苦しんで死んで行ったかも知れません。
例えば昭和10年生まれの私も小学生時代は戦争中で、家を空襲で失い戦後の飢餓時代を経験しました。今はお金さえ出せばいくらでも外国に留学出来ますが、私たちの頃は不可能でした。
身近な時代なら平成になっての氷河期、就職難で結婚もままならない若者が多いと聞きます。今の時代にまでそれは尾を引いているようです。
また新型コロナウイルスで街中がひっそりとなった時代に小中学生だった子どもたち。
マスクで顔を隠し給食は黙食、修学旅行にも行けなかったり、卒業式が無しになったり、大学生ならオンライン授業ばかりで楽しみにしていたキャンパスライフは体験できませんでした。
どんな時代のどんな国のどんな親の元に生まれるかは、自分が体験しようと決めて来た人生のプランに従っているのだと言ってしまえばそれまでですが、本当にその通りなのかもしれません。
そしてその結果、前よりは少しでも意識や人格が良くなっていればそれで目的達成、ということになるのですから。
これからもまた新しい言葉が生まれて来ることでしょう。
それがうまく説明できない、あるいは長い説明を必要とする状況をたった一言で言い表せるものであるなら、きっとこの社会に根を下ろすのではないでしょうか。
ここ2,30年の間に生まれ、普通に使われる言葉となったものの中でいちばん種類が多いのが「ハラスメント」でしょうか。
セクハラ、パワハラ、カスハラ、モラハラ、妊ハラなど、先日の新聞には30種類くらいの〇〇ハラという言葉が並んでいました。
確かに一言で状況を表すにはとても便利な言葉ですが、あまり細かいことにまでハラスメントをつけるとどんどん息苦しい世の中になってしまう恐れもありますね。
何でもtoo muchには気を付けなければね。
ほかに「教育虐待」なんて言葉もあります。
昔はただの「嚴しいしつけ」で通用していた状況です。
それが傍で見ていてもtoo muchになった時、この言葉は状況を表す言葉としてピッタリというわけです。
長い説明は要らないってことですね。
この間は又新しく「宗教的虐待」というのも生まれていました。
親が新興宗教にはまって、子どもの頃から集会などに連れて行かれてその集団から抜け出せない苦しみ。あるいは親が多額のお金を寄付したために経済的に苦しんでいる子どももいます。
他に「親ガチャ」っていうのもありますね。
でも一方で子どもの方が親を選んで生まれて来るって説もありますから、その場合は「子ガチャ」もあるかも知れませんね。
昔北野タケシさんの子どもの頃をドラマにしたのをテレビで見たことがあります。
お父さんがペンキ屋さんか何かで、タケシが「おいらこんな家になんか生まれて来たくなかった!」と言うとおっかさんが「こっちだってお前みたいな子どなんか産みたくなかったよ!」と言い返すシーンがありました。
親ガチャがあるなら「時代ガチャ」ってのもあっていいと思うんですよ。
むしろこちらの方が深刻かもしれません。
個人の力ではどうしようもない「時代」というものが相手ですから。
例えば戦国時代の女性たち。
戦略結婚で自分の意志とは関係なく嫁に行かされ、人質になったり自害せねばならなくなったりしました。
さかのぼって平安時代の女性たちは日がな一日短歌を詠んだり琴や貝殻遊びなどで男を待つだけの日々。どちらも身分の高い場合で、平民は一日中ぼろを着て働いていたでしょうけれど。
また大正の終わりから昭和の初め頃に産まれた男性たち。
太平洋戦争に駆り出されて学業半ばにして海の藻屑と消えたり、南方の島で戦いもせず飢えに苦しんで死んで行ったかも知れません。
例えば昭和10年生まれの私も小学生時代は戦争中で、家を空襲で失い戦後の飢餓時代を経験しました。今はお金さえ出せばいくらでも外国に留学出来ますが、私たちの頃は不可能でした。
身近な時代なら平成になっての氷河期、就職難で結婚もままならない若者が多いと聞きます。今の時代にまでそれは尾を引いているようです。
また新型コロナウイルスで街中がひっそりとなった時代に小中学生だった子どもたち。
マスクで顔を隠し給食は黙食、修学旅行にも行けなかったり、卒業式が無しになったり、大学生ならオンライン授業ばかりで楽しみにしていたキャンパスライフは体験できませんでした。
どんな時代のどんな国のどんな親の元に生まれるかは、自分が体験しようと決めて来た人生のプランに従っているのだと言ってしまえばそれまでですが、本当にその通りなのかもしれません。
そしてその結果、前よりは少しでも意識や人格が良くなっていればそれで目的達成、ということになるのですから。
これからもまた新しい言葉が生まれて来ることでしょう。
それがうまく説明できない、あるいは長い説明を必要とする状況をたった一言で言い表せるものであるなら、きっとこの社会に根を下ろすのではないでしょうか。