みなさまへ☆彡

おげんきでおすごしですか☆

4.28の子宮委員長はるちゃんをゲストにお迎えしての「愛のだだ漏れSpecial Day」を

開催してから ほんとたくさんのいろんな職業、いろんな世代の人に

「なんでだっこさんは子宮委員長はるちゃんのことがすきなの?」

とよく聞かれるようになりました。


それは別に批判的でもないし、「ただ純粋に聞いてみたい」というかたがほとんどだけど


こんな人↓だからだよ(・v・)




それからね、はるちゃんとそしてたくさんのすてきなかたたちと「地球家族」の

岡田哲也さん↓のこともすごく大好きだ。


「幸せに過ごすシングルファザーでもマザーでもいいじゃないか。」
https://ameblo.jp/iyashiya1848/entry-12280178872.html


「かわいそうは差別」とかっていうと

ほんとまっさきに


「じゃあ障害や病気とたたかっている人や

 

子育てとかでお辛い状況にある人に

 

あなた様はシンパシイがないんですか?!」


ってもうアレルギー反応みたいな、反射?みたいな

 

いきなり、「怒った!!」みたいに言う人もいるけどさ


なんか わたし 思うんだけど

みんなが同じ価値観だとは一切思わないけど


たとえばわたしだったら


だっこさんは難病で可哀想だから友達になってあげるね


とか


だっこさんは難病で辛いだろうからライブ手伝ってあげるね


っていう扱われ方を人からされたら


息苦しいし ものすごく一番悲しい。


それに

何かに一生懸命取り組んでいることはそりゃああるけど

それって それは 「好きだから」 で

 

昔は何につけ「私は障害があるから、、、」って卑下してたり

逆にぶっ倒れるまで頑張ったり、、、とヘロヘロだったときもあったけど

今、なにをしてても それは


「ただ、そうしたいから」であって

「障害があるから」がんばっている わけじゃないし


「何らかの大義名分のために」ではないし、


「誰かのために」と「自分の顔を忘れて」生きてもいない。

 

だって 言い出したらきりがないで ならば

「健常者だってみんながんばっている」とも言えるし


どっちだって 「がんばることがすきだからがんばっている人」もいるし


「がんばらないことがすきだからがんばらない人」もいるだろうし



それはほんとうにどれでもよくて



だれかが なにかを 「人から強いられていいこと」なんて 何もない。


はるちゃんがよくブログや本で


他人がどうのこうのーーーー!!!じゃなくて

社会の何かに反対だー!!!!とかじゃなくて


「自分が自分と両想い」


っていう一点から自分にとっての幸せがはじまる、と、書かれることがあるじゃない?


本当に幸せな人って


「他人にかわいそうでいてほしい」っていう発想がもう出てこないんだよ。


障害でも難病でもシングルマザーでもシングルファーザーでも

<特定の括りのだれか>をかわいそうでいてほしい

不幸であってほしい 不幸な「はずだ そうに決まってる」って

思いたい人って、、、


「なんで、そう思うんだろう?」って

それだけを

気が済むまで掘り下げてみるといい。


なんかね、以下これは、ただただ、自分に言ってあげたいのよ。


「わたしは障害当事者なんだから、

常に人よりがんばってないと『幸せになる資格がない』」って

昔、自分を縛りに縛っていたわたしから。


そりゃ

この生き方は「正しい」か「間違いか」を

人に決めてもらってるうちは、どれだけあがいても不幸だよ。


そして「自分で決めて、生きている人」は

どこにいたってどんな家族構成だったって

だれもがうらやむほど幸せよ。


「不幸な人」なんて

不幸なはずの人」なんて


本当は


どこにもいないんだ。