「旦那さんにはいつもごひいきにしてもらって。ホント、感謝しているんですよ」
おかみさんはにこやかにそう言って、再び奥へ。
「ねぇ、どうしてこんなお店に私を連れてきたのよ?」
夫に小声で質問。けれど夫は何も言わない。私はもう一つ質問。
「どうして私が街に出ているってわかったの?」
「ほら、ビールが来たぞ。乾杯するか」
夫は何かをはぐらかすように私にビールを注いだ。
「乾杯っ」
夫はグラスに注がれたビールを一気に飲み干す。仕方がないので私もビールに口をつける。けれど今ひとつ釈然としない。
「オヤジさん、あの話をウチのにしてもいいかな?」
「へぇっ、まぁお恥ずかしい話ですけど。かまいませんよ」
「あの話って?」
どうやらこれからが本題のようだ。夫はどんな話をしてくれるんだろう?
「こちらのオヤジさん、六年前まではサラリーマンだったんだよ。ところが六年前にあることがあってね」
「あることって?」
「あはは、宝くじに当たったんですよ。はい、お刺身です」
おかみさんが頬笑みながらお刺身を持ってきてくれた。
「宝くじって、いくら当たったんですか?」
「一千万円でした。まぁ一億円とか三億円よりは少ないですけどね。でも、私らにとってはとんでもない大金でしたよ。おかげでちょいと人生が狂いました」
「狂ったって…どうして?」
「貧乏人がいきなり大金を持つと、ろくでもない使い方をするんですね」
オヤジさんの言葉に私はドキリとした。
「実はな、おまえが宝くじに執着しだしてからこのオヤジさんのことがずっと頭にあったんだ。そして今回のことだろう。だからぜひこのオヤジさんの話を聞いて欲しくてな」
夫はそう言うとビールを一気に飲み干した。オヤジさんの話は続く。
「たかが一千万円で、一生安泰になった気持ちになってですね。会社を辞めて前からやりたかった店を持つことにしたんですよ」
「それがこのお店?」
にしてはちょっとみすぼらしい。どう見てもそんなに新しいお店には見えない。
「いえ、もっといい店だったんですけど。料理は趣味でずっとやってたし、調理師の免許もとってこれでいけると思ったんです。でも、商売なんてやったことのない人間でしたから。勢いのいいのは最初だけ。結局借金を作ってマイナス生活に陥りました。気持ちだけが大きくなっていたんですね。足元を見ずに、ガンガンやった結果がこれですから。お恥ずかしい話です」
だから夫は堅実に行こうと言ったのか。
「あらぁ、でも悪いことばかりじゃなかったですよ。おかげでこの人、謙虚ってのがわかって。そしたら周りの方が助けてくれて。もう一度小さい店からやり直すって言ったら、居抜きでこのお店を紹介してもらえたんです」
「まぁ、いろんな勉強をさせられましたよ。お金って怖いですね。本当に大切なことを忘れてしまう、変な魔力がありますよ」
私は夫の顔を見た。夫は何食わぬ顔で刺身を口に放り込んでいる。夫が私に伝えたいことはわかった。
「あなた…」
「ん、なんだ?」
「私、間違ってたわ」
「いや、お前は間違っていないよ。お前にはお前の考えがあるんだろうから。ただ、お前がそれで後悔しなければの話だけどな」
それからはおやじさんの料理に舌鼓を打って楽しんだ。このお店の一番のおすすめ、肉じゃがのコロッケはおかみさんの手作り。その作り方を習って、私達は満足して家路についた。帰り道、あの疑問が頭にわいてきたので夫に質問。
「ねぇ、どうして私が街にいるって知っていたの?」
「あ、あれか…実はな、貴里子さんから連絡があったんだ」
「貴里子が?」
「あぁ、お前のこと心配していたぞ。それとカフェ・シェリーのマスターもな」
「えっ、カフェ・シェリーを知っているの?」
「あぁ、たまに行くことがある。あそこのマスターにはいつも勇気をもらっている。おかげで今の自分があるんだよ」
知らなかった。まさか夫まであの喫茶店に縁があっただなんて。