カフェ・サウェリガディン

カフェ・サウェリガディン

Cafe Sawerigading

※ 現在ブラジルはアマゾン奥地にて修業の身。満喫します堪能します。
→ 2015年7月帰国、お引っ越し先
https://www.cafesawerigading.com/

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はいさーい。約一週間、行ってまいりましたさ沖縄。
たまに仕事で行くときはせわしなくて、おざなりな観光しかできないのだけど、このたびは存分に回ることができました。

今回は荷物の量を考え、普段愛用しているCanon 5Dではなく、某科研Pのためにしばし貸与を受けたPanasonicDMC-GX1なる機種を携行しました。
価格.com とか見ると、これが3万ちょっとで買えるとは…驚きの機動性とコストパフォーマンスですね。(誇張抜きで5D10分の1
テクノロジーの進化とは凄まじいものです。
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詳しい旅程等はFacebookのアルバム にて。
長々と私の我が儘にお付き合いいただいたアマンダ、よっちとそのご家族、そしてカタリーナには心から感謝する次第であります。

ちなみに今回の旅中でも泊まらせてもらった我が友よっちのお宅
たまにコンドミニアムとして貸し出しもしてるそう。高級感ハンパないです…。

ちょっと前まで東京で一緒に飲んでた人が、今やお店いくつも経営してこんなとこ住んでる。堪りません沖縄。
カフェ・サウェリガディン
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この限られたかけがえのない時間たちを堪能すべく、香川うどん巡り、淡路島チャリ一周、久々の凱風館お稽古に京都探訪と、イベントは続くのです。

 ヤクザ入ったんはな、平成元年のこっちゃ。別にわしのほうから入りたい言うたわけちゃうで。山●組の本部ゆうたら神戸やろ。わしも神戸が地元やしな。総会屋として結構知られとったしな。ほんで周りの取り巻きに御輿担がれてな、スカウトされたんや。入ったときはめちゃめちゃ待遇良かったんや。ちょうどバブルの真っ只中やったからな、そこに名前置いとくだけで上納金ゆうてな、それが毎月きっかり百万転がり込んできとったんや。わしはいかにもやくざしてますよ、ゆうふうには見えんやろ。可愛い子分にはヤクザ風吹かさんとちゃーんと面倒見たるんや。そうするとな、喜んで向こうから金持ってくるゆう寸法や。こらぁ、出さんかい言うたらこれ恐喝になってまうやろ。わしはそんな下手は打たんねん。頭使ての、うまーいこと銭かすめとんねや。上品なヤクザとはそういうこっちゃ。分かったか。
 だから初めの二年でな、いくらや、二千四百万もろたわ。ほんでな、そういうふうに手際良く稼ぐためにはいろいろ考えるもんやな。名前も五つもってるで。昔、片岡千恵蔵ゆうやつの映画で『七つの顔の男だぜ』ゆうのがあってな、わしはそれを地でいっとる。カタギにはカタギの、ヤクザにはヤクザの、と使い分けとんねや。

 斎藤道山ゆうてな。戦国時代、美濃の斎藤道三て知ってるか?まむしの道三言われたやつや。そいつと力道山を組み合わせたんや。力道山強かったんやで。わし東京ではこの名前のほうがよう通っとるわ。あと和崎裕次な。息子と一緒の名前やけどな。ええやんけ、裕次郎のファンなんやから。考えてもみいな、芳和の親父こてこての現職警官やで。和崎伸次の名前で一回でもぱくられたら警察のデータベース載ってまう。そんで検索でもされたらいっぺんに素性ばれる思わへん?そうちゃう? そんなもん出てきたら向こうが結婚なんか許す思うか? 絶対できてへんやろ。せやから裏で活動するときわしは一切和崎伸次ゆう名前は使わへん。どんなデータ引っ張り出してきても、どこにもこの本名は登録されてない。どこ探しても何も出てこうへん。あったとしても和崎裕次だけや。だからな、わしは塀の中に入らんために親や周りにぎょうさん金積ませたり、あるだけの伝手を使い果たしたからな、いつも法すれすれのことやっとんのにいまだ前科はないで。どや、たいしたもんやろが。
 女と付き合うときもだいたい本名は使わんな。北海道から沖縄までな、わしは泊まるとこに不自由せんの。何人おるか? 阿呆か野暮なこと聞くな。お前がびっくりするからな、言わんとくわ。男はな、女に狂たら狂ただけ金稼ぐねん。お前のお父ちゃんにも「ばばあ抱いて何が楽しいねん」てよう言われるねんけどな、ええやんけ、青春しとる。わしは一生青春するんや。でもな、ええかよう覚えとけ、女より銭より重いもんがあんねんで。男はな、プライドしょって、それで生きとる。それが無かったらわし、死ね言われとんと一緒やで。例えばな、街歩いとって誰かに会ったとするやろ。そのとき「行こか」と誘った人間が金払う。客と飯行くときなんかはな、勘定のとき子分に自分の財布ぽーん放ってやな、「これで払とけ」で終いや。子分のほうは子分のほうでちゃんと心得とるから、もしその財布に銭が入ってなくても、わしの面子立てて不足分は何も言わず自分で払う、そういうもんなんや。あと新幹線乗るときはグリーン車、飛行機はファーストクラス、これ鉄則な。誰が見とるか分からんのやから。細かいことかもしれんけどな、それがプライドや。そこで愛や恋や言うたら女の世界になってまう。分かったか。
 わしと日本社会との関係か。うーん。そうや、忘れもせえへん昭和47年や。田中角栄ゆうおっさんが総理大臣なってな、日本列島改造論ゆうの打ち出してめちゃめちゃバブルな時代やったんや。みんな土地買い出してな。それからすぐ第一次石油ショックゆうのもあってな、トイレットペーパーがなくなるんちゃうか言われたんや。それからやな、わしが自分で相場張るようなって総会屋にも手出したんは。
 あとヤクザなったときもバブル絶頂の時代でな、さっきも言ったやろ、月百万もろとったって。それがな、暴対法ゆうてな、あったやろ。それでな、もうわややでほんま。お前は知らんかもしれんけどな、あれはめちゃめちゃでかい出来事やったんやで。儲け無くなってもたんやから。それまではヤクザと警察仲良かったんやで!おかげで月百万は入ってこんようなるしやなあ、会費払わなあかんようになるしやなあ、二ヵ月に一回事務所で当番せなあかんしやなあ、金と体取られるだけで得すること何もあらへんでほんま。当番ゆうたらな、その間じゅうずっと事務所おらなあかんのや。ガサ入れとか捜査とかで踏み込まれたら全部当番の責任や。踏み込まれたこと、そらあるで。生田署とか葺合署とかからな。でもな、さっきも言うたやろ、本名つこてないからたいして痛くもないんや。
 こういう裏のことはな、お前の預かり知らん世界やからな、あんま書かんほうがええ思うけどな、何個か教えたるわ。
 十年程前のことや。日●方齊ゆう住●金属の社長がおったんや。そいつの長男がな、東●グループの根●の娘と結婚しとったんや。その長男が、わしも懇意にしとった銀座のホステスと不倫しとった。ミサコゆう名前やねんけどな、「丙午(ひのえうま)の女」で通っとったええ女やったわ。ほんでわしが脅して慰謝料二億ふんだくったったんやないかい。当たり前やがな。向こうは表沙汰にされたらえらいこっちゃからな。違うか?
 あとはな、ロッキード事件て知ってるか? 田中角栄がぶち込まれた事件や。その黒幕に、もう死んだけど児玉誉士夫ゆう右翼の大物がおってな、そいつの秘書しとったんが太刀川恒夫ゆうて、今は東スポの社主やっとるわ。そいつとやな、ことあるごとに衝突しとったからな、わしが喧嘩ふっかけたんや。斎藤道山としてな。これももちろん勝ったで。せやからな、わしは喧嘩負けなしや。
 それにな、二億の借金した言うたやろ。わしは一銭も返してへんで。今は利子もついて五億に跳ね上がっとるらしいわ。でも和崎さんなら出世払いでいいですわー、言うてな、もう誰も取り立てにこうへんねん。こうなったらわしの勝ちやで。悪い奴ほどよく眠る言うけどな、わしは眠りっぱなしや。がはははは。
 だからわしは自分の職業を、自遊人や思とんねや。好き勝手しとる。毎日が楽しいてしゃあない。愛人作ってな、仕事もせんと呑んだくれてな、家に金も入れんとな、そういう人生もありますよっちゅうこっちゃ。でも暴対法もそうやけどな、あとそれと四年前に商法が改正されたんや。それまでは税金も払わずに済ませとったんやけどな。そういうわけにもいかんようなった。これからわしらみたいな人種はどんどんやりにくなる。そいでわしつい最近、今年なってからや、安岡辞めてから初めて保険証持ってもうた。50も過ぎるとな、そら老後のことも考えるわいや。老後は安泰言えるくらいの銭はあるけどな。
 だからな、お前がわしみたいなんに興味持ってくれるんは結構やけど、間違ってもちょっとでも憧れなんかしとったらあかんで。お前はお前の人生があって自分で切り拓いていかなあかんねやから。分かった?東京のパパからの忠告やぞ。


後記。

インタヴューからはや十余年。このところ和崎氏の体調が思わしくないという。
往時の輝きを取り戻し、料亭中に響きわたるバリトンボイスで再びその武勇伝が聞けることを編者は願っている。なお、和崎氏を含め一部の登場人物は仮名とした。


 東京行ったらな、すぐ就職先見つかったわ。安岡商事ゆうて先物の会社や。わしが主に扱っとったんは小豆やな。小豆ゆうたら超ハイリスクな相場なんや。ギャンブル好きやしな、大学では一応経済学やっとったしな、打ってつけや思わんか?そこで安本楢千代ゆう女社長がおってその人がわしのことえらい可愛がってくれたんや。だから言うとるやろ、わしは人の運だけはええんやて。めちゃめちゃ一生懸命働いたで、あの頃は。
 結婚したんは働き出して三年くらいした頃や。あれ幸子ゆうんや。わしが得意先でよう回っとった会社の事務やっとったんや。あいつにはフィアンセおってんけどな、強引に奪い取ったんや。プロポーズはな、「伊勢丹と三越買うたる!」や。言うとる意味分かるか?ダイヤの指輪やらな、チンチラの毛皮なんかな、わしはハナから相手せえへんねん。デパート丸ごとやるわ言うたんやで。そんなやつ他におるか? 考えてみ、どこにでもおるような男やら中途半端な男やったらな、婚約してるくらいやから絶対わしに靡いてこんかった思わんか。あの女にとってわしは今まで会ってきた男と180度、全くタイプのちゃう男やったんや。ほんでコロッときおったんや。そんなもんやでお前。
 仕事のほうもうまいこといっとってな、結婚してすぐ、25のとき上諏訪の支店任されたんや。考えられるかお前。先物なんて博打やからな、お前。どうしたかゆうとな、今でも忘れんわ、上諏訪の支店の電話番号な、0265-3-111110まで連番で取ったんや。ごり押ししまくってな。分かるか。お前こんな番号取るの、NTTや市役所でも難しい、官庁並みやど。これで相手も信頼すんねん。だからな、わしはこの番号だけで注文取ったんや。そんでな、注文受けた客の持ち家とか土地とか資産全部調べ上げた上でいざ乗り込んでいくやろ。向こうからすればどんだけのベテランが来るんかと思っとったら、たかが25やそこらの男や。こんの若造が何えらそうなこと言いよんじゃゆうような態度とるやろ。でもな、そんなもん関係あらへんねん。実力の世界や。わしはアゴが達者やったからな、いくらまでやったら出せますか、言うて大見得切るんや。初めは一千万までしか出せません言うとったんがな、終いには三千万やら五千万やら出させとったわ。
 でもな、そのうち飽きはくるもんや。所詮サラリーマンやで。もっとでかい勝負したい思ても会社の金使うわけいかんやろ。そんなことしたら横領でぶち込まれてまうわ。ちょうどそのときな、喫茶店の雇われ店長やりませんかてオファーが来たんや。どこからゆうてそれはおかんの親戚筋でそういう伝手がごちゃごちゃあんねやがな。ほんでな、日航、知っとるやろ、あとそれとかな、日本レンタカーやらな、そういうとこが出資しとるれっきとした喫茶店でな、場所は渋谷の公園通り、東武ホテルあるやろがい、その真ん前や。超一等地やで。これはいける思てな、職乗り換えたんや。
 店の名前何やったっけな。ど忘れした。とにかく横文字や。そこでな、早稲田やら青学やら慶応やらな、流行に敏感そうな放送系のサークルからバイトの学生掻き集めてDJさせたんや。アメリカでヒットしとったロックがんがん流しとったらな、もう大当たりや。78席しかない狭い店が連日大盛況やで。日の売り上げがだいたい四十万から五十万くらいあったんやから。一気にバブリーやがな。
 そうなったらな、ええ生活送れた思うやろ。でもな、そこが若かりし頃のわしのあかんかったとこでな、全部ギャンブルと先物につぎ込んでもたんや。サラ金にも手出したわ。サラ金駆けずり回って一日に八百万つまんだこともあるで。ほんで安岡辞めて二年経ってなかったな、その間に二億の借金こさえたんや。
 取り立てがぎょうさん家に押しかけてきおったな。でもわしは行方くらましてな、わしはもう死んだゆうことにしとけ言うて追っ払ったりな、無茶やっとったわあの頃は。でもそのうちそんな言い訳通用せんようになってきてな、ほんで離婚したんや。ちょうど智子が生まれて間もなかったしな。そらそうやんけ、そうでもして縁切らな家財から何からみんな差し押さえられて持ってかれるんやから。それから家に帰るのは気が向いたときだけ、ちゅう生活や。安岡おるときもな、わしその頃手取りで月三十万もろとったんや。でも家に入れとったんは二万だけや。明細なんて一回も見せたことないで。だからわしはな、家の中ではぼろかすやで。でも外づらはええんや。勝新知ってるか?座頭市シリーズの役者よ。そいつと同じやで。幸子には迷惑かけた。だからわしよう言うねん。不幸な子、幸子や。名前負けしとんねんってな。がはははは。
 でもな、何回も言うとるやろ、わしは人との出会いには恵まれとったからな、いくら借金しても苦労した覚えはないで。わしを慕うやつがわんさかおってそういう若い衆がぎょうさん集まってきおったんや。安岡のときとか喫茶店の店長やっとるときのな。わしは面倒見はええねんで。今そいつらほとんど出世してええ暮らししとるわ。そいつらがな、わしのところに金持ってきとったんや。和崎さんこれどうぞ使うて下さい言うてな。ほんで今はめでたく会社の相談役やがな。何しとるかゆうとな、お前総会屋知っとるけ?そうか。それやがな。名刺はな、今あるのこれしかないわ。VIP情報社とインタートレードやないかい。東証一部に上場しとる企業百社くらい客に持っとんねん。百社なんてそんな大したもんやないで。例えばな、わしは神●製鋼の東京本社に自由に使えるだだっ広い応接間持っとるねん。そこに客呼ぶとな、「和崎さんこれどないしはったんですか、なんでこんな部屋使えるんですか」言うて一気に信頼獲得や。そらそうや思わへん?神●製鋼やで。そういう伝手をわしはぎょうさん持っとるってこっちゃ。
 あとな、家族にも恵まれた言うべきやろな。ええ息子とええ娘や。変にぐれたりせずにまともに育ってくれた。幸子の面倒もちゃんと見てくれてる。わしが反面教師なっとんねや。裕次のほうはまだ三十前やけどな、早うから結婚して子供二人おる。トラックの運ちゃんしてんねんけどな、ちゃんとローン組んで一戸建ての家も建てとるわ。智子のほうはな、かわいいやろ。お前結婚式にも来てくれたんやったな。ありがとう。旦那の芳和とは高校の頃から付き合っとったんや。この秋に子供生まれるねん。裕次も智子も「お父ちゃんみたいな気違いみたいなことようやらん、小っちゃな幸せでええ」言うて慎ましくやっとるよ。
 でもな、母子家庭やゆうことで無用な差別されるのは我慢ならんかったからな、そこには気使ったで。智子はな、中学のとき転校してんけどそのとき新しく入った学校でいじめにあっとったらしいわ。それで泣きながら電話してきたんや。わし、ぶっちーんきて校長室乗り込んで「こらぁボケ、何さらしとんねん!母子家庭やからゆうてなめとったらあかんど」言うて校長と教頭正座させて啖呵切ったったんや。そしたら次の日全校集会や。智子はそこまでせんでも言っとったけどな、お父ちゃんにもの言うたら即行やってことは分かったやろ。
 あと裕次が反抗期のときな、高校にバイク乗り付けて停学になったんや。「パパ助けて。もう私じゃどうにもできん」って幸子から電話あったんや。よっしゃ任しとけ言うてな、わしと裕次と担任の先生とで学校で面談することになったんや。ほんでわしが約束の時間にきちっと着いとるのにやな、裕次が五分遅刻してきおったんや。もう来るなりぼっこーんゆうて殴り倒したったわ。顔面血だらけなっとったで。先生も止めに入っとったんやけどな、「先生はほっといてくれ、これはわしと息子の問題や」言うてな。そらそうやろ。親のわしがその頃一人で住んどった日本橋のマンションから一時間かけてやで、遠路はるばる時間どおり来とんのに、家から十五分の息子が何遅れとんねん。違うか?「わしらは子供を学校に預けとんやから、こういうことはしっかり躾けてもらわな困る」言うて学校の先生にも説教したったわ。わしらの時代の先生とは全然違うな、今は。

 お前がなあ、わしの人生なんか知りたいんかい。何でも聞いてくれ。もう何でも喋ったるで。
 生まれは1945年、京都の山崎や。わしが生まれる三年程前に家族で疎開してきおったんや。親戚住んどったからな。こう見えてもわしの家は由緒正しいんやぞ。うちのおかんはな、お前も会ったことあるやろ、サザエさんに出てくるフネさんみたいは人やろ。もう今90なっとんねん。明治女やのにちゃんと高等教育まで受けとんねや。めちゃめちゃエリートやで。その親戚筋には芦田均ゆう総理大臣まで出しとんねや。家のすぐ向かいはな、石投げれば当たる距離や、サントリーの佐治一族の館や。佐治ゆうて知っとるやろ。そことも付き合いあったんや。
 わしが三歳の頃や。親父が転勤なって垂水来たんや。親父は普通のサラリーマンやっとったわ。あの頃はめちゃめちゃ田舎やってんぞ垂水。考えられるかお前?山田川やらな、多聞の山やらな、須磨とか舞子の浜やらな、一日中遊んどったわ。
 小学校は霞ヶ丘小学校や。三年のとき担任やったんが浅野先生ゆうてな、若い女の先生や。え、わしの初恋の人やがな。何言わしよんねんこら。わしら可愛がってもろて、よう甲子園連れて行ってくれたりしよったんや。みんな阪神ファンやったからな。もちろん先生の自腹でやぞ。あと家によう呼んでお菓子とかも出してくれはっとったわ。今じゃ考えられるか?あの頃の先生ゆうたらみんな金八先生みたいなんばっかりやったんや。
 そのときお前のお父ちゃんと一緒のクラスで友達なったんやがな。家近かったしな。わしらつるんだら無敵やったんやで。あのな、一つ教えたろか、わしがこんななってしもたんはな、わしは末っ子やったからな、おかんにもうめちゃめちゃ溺愛されたんや。可愛がられて可愛がられて育てられたからな、こうなってもたんや。上にな、兄貴が一人と姉貴が二人おんねんけどそいつらがわしとちごて真面目なやつらでな、昔から頭上がらへんねん。「あんたなんかはよ野垂れ死にしてしまい」いうてな、今でも言われるわ。そういうところをくっすんにもぎょうさん見られとるからな、あいつにもでかい顔できひんねん、がはははは。でもな、もしほんまに今日死んだらわしの勝ちやろ、そう思わんか?
 中学校は歌敷山やがな。知っとるやろ、今星稜台高校なっとるところや。そこでくっすんと一緒に野球部入ったんや。その頃はな、みんなプロ野球に憧れとったんや。今はどうか知らんけどな、その頃は先輩は神様やいうてめちゃめちゃ縦の関係に厳しかったんや。わしらそんなもん関係なくて威張りとうて威張りとうてしょうがなかったからな、よう一緒に楯突いとったわ。せやからわしとお前のお父ちゃんとは殴られ仲や。
 ほいで中二のときの担任がな、杉田哲ゆうて陸上の顧問やっとったんや。わしは裕次郎派やってんけど杉田先生は慎太郎のほうのファンでな、今県会議員なっとるわ。あと陸連の会長もやっとるみたいやな。その先生がワシを陸上の助っ人として引っ張り込んだんやな。種目は中長距離や。走るの速かったんや。それにな、人どついたりしたらな、野球やったらみんなに迷惑かかるやろ。せやから個人競技の陸上と掛け持ちしとったんや。杉田先生にはほんま世話なったわ。この人にわしの人生の筋道つけてもうたんや。高校行けたんも杉田先生のおかげや。
 葺合高校ゆうてな、そこに教育大学出の林田積之介ゆう、その頃走ればアジア記録塗り替える言われたすごいやつが新米の監督で赴任してきて二年目で、陸上部強しよ思て人集めに燃えとったんや。今は青木ゆう姓なって関大の教授やっとるわ。そいつが杉田先生と同級やったってことでな、わしに白羽の矢がたって行けることなったんや。越境入学や。その頃まだ校区に厳しかったときやからな、珍しかったんやぞ。無理から御影に住んどるいうことにして何とか認めてもうたんや。テストの成績ばりばり悪かったからな、それなかったら高校行けてないでほんま。
 高校時代は陸上一本で明け暮れとったな。せっかく入れてもろたからな。こういうとこわし真面目やねん。兵庫県では敵はおらんかったからな。何せもうめちゃもてたで。練習しとるときでもな、女がきゃーきゃー騒ぎよんねや。分かる?せやからな、わしは若いうちからそういう経験積んどるからな、今も女おらな生きていけんのや、がはははは。
 大学もな、陸上の推薦で同志社や。向日町に住んどる親戚の家に下宿しとったんや。そのもうすぐ目と鼻の先にな、競輪場があったんや。向日町競輪場やがな。知らんか?お前競輪やらんのけ? ああそうか。おもろいねやがなこれが。いまだにはまっとるわ。
 陸上はな、一年の関西学生選手権で5000メートル二位やったんや。一年でいきなり二位やでお前、考えられるか?そら次は優勝しかない思うやろ。それがな、一年の終わりに肺に穴空いてもてな、血尿とか咳とかめちゃ激しいてな、歩くのもままならんようなって姉貴が薬剤師やっとった済生会病院で三ヶ月入院や。
 退院してからはな、一応建前で陸上部に籍は置いとったけど、もう走れんかったな。そうなったらもう遊ぶしかないやろ。違うか? そやろ。学校に寮があってな、そこに住んどったラグビー部やら相撲部の体育会の先輩の部屋を仲間とまわってな、海外に遠征行くから、言うて金もうらうんや。で半分ピンハネして街で遊びまわるんやがな。祇園は高くて手が出んかったからな、もっぱら木屋町やったの。せやからな、わし今京都行ったら祇園遊びは欠かせへんねん。分かるか?
 そいでな、大学卒業したら就職は日産プリンスに決まっとったんや。四年になるときにはもう内定もうとったんやで。夏休みにはインターンも行ったしな。お前その頃日産プリンスゆうたらめちゃめちゃええとこやぞ。誰が見ても前途洋洋や思うやろ。それがやな、西村教授ゆう経済学の先生がおったんや。大河内批判やったゆうてな、当時持て囃されとったんや。大河内知ってるか?大河内一男ゆうてな、東大の総長もやっとった偉い学者や。そいつを批判したんがこの西村ゆうやつや。そいつだけ単位よこしやがらんかったんや。そいつの以外全部取っとったんやで!分かるかお前。びっくりするやろ。ちゃんと饅頭持って家まで押しかけたんやけどそいつドア開けやがらんかったな。ほんで卒業できずや。仲間七・八人連れてしばきに行ったんやけどな、結局それも果たせず終いや。だからな、分かるかお前?それさえなかったら今頃わしもまともな職就いとったんやで。
 それでやな、さっきも言うたやろ、わしの家はみんな出来が良かったからな、もう恥ずかしいてこっちおられんようなったんや。こっちではええ子でおりたかったからそない悪いこともでけんしな。ほんで関西ところばらいや。がはははは。そんで東京行ったんや。その後大学戻った記憶ないしなあ、再試験みたいなもんも受けてへんからな、多分卒業はしてへんわ。でもな、そんなもん社会出たらどうでもええことなんやで。お前もよう覚えときなさいよ、東京のパパとして言うといたるわ。大学時代の同級生でな、今阪大の教授やら郵政省の役人やらなっとるやつおんねんけど、そいつらが「和崎さん助けて、どうにかして」言うて泣きついてくるんやから。よっしゃ任しとけ、てなもんやで。

私の名前はジエゴである。理由は特にない、こともない。
敬愛するディエゴ・マラドーナ師匠にあやかった。そのポルトガル語読みである。



この2ヵ月、故あってポルトガル語の特訓を受けていた。
そこで私はジエゴと呼ばれている。お互い呼びやすいよう、クラスで皆ポルトガル語の名前を付けるためだ。

これまでいろんな言語をかじってきたが、基本的に独学型であった私にとって、
ほぼ毎日お世話になったエミリア先生は、文句なく人生最良の語学教師だ。
ついでに、毎度お手製のお菓子を持ってきてくれるというこの先生の絶え間ないホスピタリティーのおかげで、またしても我がダイエットが挫折しつつあるということも併せて告白しておこう(笑)

で、明日はこの2ヵ月の総まとめともいえる試験が3時間にわたって行われる。
それでも今日私が選んだのは、大学院の同窓会と東京最後のフットサルであった。
ごめんよ先生。
でもま、お勉強なんてものは長時間すればよい、というものでもないのである。

思えばこのフットサルチームとの付き合いも長い。
就職して間もなく、今は博多に暮らすノリヨシの紹介で参加し始めたのだった。ということはもう5~6年か。
社会人になってボールに触れる機会が激減していた私にとって、有難い存在であった。
メインの活動場所は中目黒なんで、当時住んでた白金からやたら近かったしね。

途中、仕事でバタバタしたり、チームにもちょいややこしい事情が勃発したり、あと震災でしばらく体育館が使えなくなったりといろいろあって参加できない時期もあったけど、何だかんだでお世話になったよ。
月に一回行けるか行けないかってくらいの稀な頻度とはいえ、曲がりなりにもボール蹴ってるの、今ではここだけだもの。
その割に、会場の確保とか事務作業とか、何も貢献できず申し訳ない、キャプテン。
今後NPO法人化の話が動き出した暁には、多少なりともお力になれると思うよ。

本日をもってしばらくチームを離れますが、末永く存続することを願っています。
私がまた本場のフチボウを持ち帰ってきますから♪

カフェ・サウェリガディン
Vou voltar aqui algum dia!

※ 写真は約半年前の一枚。同じく中目黒のOnceにて。