2001年夏、和崎伸次かく語りき(1) | カフェ・サウェリガディン

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 お前がなあ、わしの人生なんか知りたいんかい。何でも聞いてくれ。もう何でも喋ったるで。
 生まれは1945年、京都の山崎や。わしが生まれる三年程前に家族で疎開してきおったんや。親戚住んどったからな。こう見えてもわしの家は由緒正しいんやぞ。うちのおかんはな、お前も会ったことあるやろ、サザエさんに出てくるフネさんみたいは人やろ。もう今90なっとんねん。明治女やのにちゃんと高等教育まで受けとんねや。めちゃめちゃエリートやで。その親戚筋には芦田均ゆう総理大臣まで出しとんねや。家のすぐ向かいはな、石投げれば当たる距離や、サントリーの佐治一族の館や。佐治ゆうて知っとるやろ。そことも付き合いあったんや。
 わしが三歳の頃や。親父が転勤なって垂水来たんや。親父は普通のサラリーマンやっとったわ。あの頃はめちゃめちゃ田舎やってんぞ垂水。考えられるかお前?山田川やらな、多聞の山やらな、須磨とか舞子の浜やらな、一日中遊んどったわ。
 小学校は霞ヶ丘小学校や。三年のとき担任やったんが浅野先生ゆうてな、若い女の先生や。え、わしの初恋の人やがな。何言わしよんねんこら。わしら可愛がってもろて、よう甲子園連れて行ってくれたりしよったんや。みんな阪神ファンやったからな。もちろん先生の自腹でやぞ。あと家によう呼んでお菓子とかも出してくれはっとったわ。今じゃ考えられるか?あの頃の先生ゆうたらみんな金八先生みたいなんばっかりやったんや。
 そのときお前のお父ちゃんと一緒のクラスで友達なったんやがな。家近かったしな。わしらつるんだら無敵やったんやで。あのな、一つ教えたろか、わしがこんななってしもたんはな、わしは末っ子やったからな、おかんにもうめちゃめちゃ溺愛されたんや。可愛がられて可愛がられて育てられたからな、こうなってもたんや。上にな、兄貴が一人と姉貴が二人おんねんけどそいつらがわしとちごて真面目なやつらでな、昔から頭上がらへんねん。「あんたなんかはよ野垂れ死にしてしまい」いうてな、今でも言われるわ。そういうところをくっすんにもぎょうさん見られとるからな、あいつにもでかい顔できひんねん、がはははは。でもな、もしほんまに今日死んだらわしの勝ちやろ、そう思わんか?
 中学校は歌敷山やがな。知っとるやろ、今星稜台高校なっとるところや。そこでくっすんと一緒に野球部入ったんや。その頃はな、みんなプロ野球に憧れとったんや。今はどうか知らんけどな、その頃は先輩は神様やいうてめちゃめちゃ縦の関係に厳しかったんや。わしらそんなもん関係なくて威張りとうて威張りとうてしょうがなかったからな、よう一緒に楯突いとったわ。せやからわしとお前のお父ちゃんとは殴られ仲や。
 ほいで中二のときの担任がな、杉田哲ゆうて陸上の顧問やっとったんや。わしは裕次郎派やってんけど杉田先生は慎太郎のほうのファンでな、今県会議員なっとるわ。あと陸連の会長もやっとるみたいやな。その先生がワシを陸上の助っ人として引っ張り込んだんやな。種目は中長距離や。走るの速かったんや。それにな、人どついたりしたらな、野球やったらみんなに迷惑かかるやろ。せやから個人競技の陸上と掛け持ちしとったんや。杉田先生にはほんま世話なったわ。この人にわしの人生の筋道つけてもうたんや。高校行けたんも杉田先生のおかげや。
 葺合高校ゆうてな、そこに教育大学出の林田積之介ゆう、その頃走ればアジア記録塗り替える言われたすごいやつが新米の監督で赴任してきて二年目で、陸上部強しよ思て人集めに燃えとったんや。今は青木ゆう姓なって関大の教授やっとるわ。そいつが杉田先生と同級やったってことでな、わしに白羽の矢がたって行けることなったんや。越境入学や。その頃まだ校区に厳しかったときやからな、珍しかったんやぞ。無理から御影に住んどるいうことにして何とか認めてもうたんや。テストの成績ばりばり悪かったからな、それなかったら高校行けてないでほんま。
 高校時代は陸上一本で明け暮れとったな。せっかく入れてもろたからな。こういうとこわし真面目やねん。兵庫県では敵はおらんかったからな。何せもうめちゃもてたで。練習しとるときでもな、女がきゃーきゃー騒ぎよんねや。分かる?せやからな、わしは若いうちからそういう経験積んどるからな、今も女おらな生きていけんのや、がはははは。
 大学もな、陸上の推薦で同志社や。向日町に住んどる親戚の家に下宿しとったんや。そのもうすぐ目と鼻の先にな、競輪場があったんや。向日町競輪場やがな。知らんか?お前競輪やらんのけ? ああそうか。おもろいねやがなこれが。いまだにはまっとるわ。
 陸上はな、一年の関西学生選手権で5000メートル二位やったんや。一年でいきなり二位やでお前、考えられるか?そら次は優勝しかない思うやろ。それがな、一年の終わりに肺に穴空いてもてな、血尿とか咳とかめちゃ激しいてな、歩くのもままならんようなって姉貴が薬剤師やっとった済生会病院で三ヶ月入院や。
 退院してからはな、一応建前で陸上部に籍は置いとったけど、もう走れんかったな。そうなったらもう遊ぶしかないやろ。違うか? そやろ。学校に寮があってな、そこに住んどったラグビー部やら相撲部の体育会の先輩の部屋を仲間とまわってな、海外に遠征行くから、言うて金もうらうんや。で半分ピンハネして街で遊びまわるんやがな。祇園は高くて手が出んかったからな、もっぱら木屋町やったの。せやからな、わし今京都行ったら祇園遊びは欠かせへんねん。分かるか?
 そいでな、大学卒業したら就職は日産プリンスに決まっとったんや。四年になるときにはもう内定もうとったんやで。夏休みにはインターンも行ったしな。お前その頃日産プリンスゆうたらめちゃめちゃええとこやぞ。誰が見ても前途洋洋や思うやろ。それがやな、西村教授ゆう経済学の先生がおったんや。大河内批判やったゆうてな、当時持て囃されとったんや。大河内知ってるか?大河内一男ゆうてな、東大の総長もやっとった偉い学者や。そいつを批判したんがこの西村ゆうやつや。そいつだけ単位よこしやがらんかったんや。そいつの以外全部取っとったんやで!分かるかお前。びっくりするやろ。ちゃんと饅頭持って家まで押しかけたんやけどそいつドア開けやがらんかったな。ほんで卒業できずや。仲間七・八人連れてしばきに行ったんやけどな、結局それも果たせず終いや。だからな、分かるかお前?それさえなかったら今頃わしもまともな職就いとったんやで。
 それでやな、さっきも言うたやろ、わしの家はみんな出来が良かったからな、もう恥ずかしいてこっちおられんようなったんや。こっちではええ子でおりたかったからそない悪いこともでけんしな。ほんで関西ところばらいや。がはははは。そんで東京行ったんや。その後大学戻った記憶ないしなあ、再試験みたいなもんも受けてへんからな、多分卒業はしてへんわ。でもな、そんなもん社会出たらどうでもええことなんやで。お前もよう覚えときなさいよ、東京のパパとして言うといたるわ。大学時代の同級生でな、今阪大の教授やら郵政省の役人やらなっとるやつおんねんけど、そいつらが「和崎さん助けて、どうにかして」言うて泣きついてくるんやから。よっしゃ任しとけ、てなもんやで。