くノ一 早月(四話) | 潤 文章です、ハイ。

潤 文章です、ハイ。

俺のペンネーム。ジュン・フミアキである。

くノ一 早月(四話) 改名 柳生九兵衛

十日ほどが何事もなく過ぎた、その朝のこと。

早月はなぜか眠りが浅く、朝まだ暗いうちに起き抜け
て、白波立つ海原に朱を流す来光を見つめていた。
今朝は風が出ている。西の空に斑雲が群がりはじめ、
どうやら雨になりそうだった。

幾度ここで我が身を呪ったか。しかしいま早月は一筋

の光明を見い出して、暗雲去るその予感を感じていた。
ゆくりなく出会った若武者は早月を変え、女たちの心
の置き場も揺るがしている。くノ一は影。その影に一
条の光を与える、それが香月。そばにいて密かに想う
それだけで雲海にたゆたう心持ち。早月だけではなく
女たちはそう感じていたに違いなかった。

そんなとき背に乱れなき気配。日中のくノ一は町女の
姿。まだ若い。江戸の指示を伝える甲賀のくノ一だ。
「早月殿、御前様のご指示を伝えに」
「ご苦労。それで?」
「その前にお尋ねしたい。あのお方は何者?」
「香月様と申されてね、危ういところを二度も救って
いただいた」
「では信用できると?」
「誓って。この命をかけてもいい」
「さようでございますか。ではそのようにお伝えいたし

ます」

女の背後に、さらに男の気配。起き抜けた香月だっ

た。香月は丸腰で穏やかな面色だ。
「ひそひそと俺の話か」
甲賀のくノ一は声もなく、浅く会釈しておきながらも
警戒する眼差し。
香月は言った。
「俺のことならかまわん、用向きを言うがいい。早月
ら一派とは同衾の仲ゆえな」
くノ一は早月に目を流し(マジなん?)、早月は微笑ん

でうなずいた。
「わかりました、では用向きを・・」

新たな役目。しかしそれは早月にすれば穏やかな仕

事であった。
ここは小田原。この頃すでに伊豆半島の首根っこ、熱
海から、山中の伊豆吉奈にかけて関東圏の湯治場と

して、江戸から駿府から、やんごとなき者どもが湯治

を偽り密会の場ともなっていた。
そこでその場に草を置き、それとなく探らせようという

ことで、早月ら元は風魔のくノ一に声がかかったという

ことだ。

風魔忍びはもともと徳川の敵。甲賀に伊賀、はたまた
根来と、忍びどもが絡み合う公儀の役目には不適切と
いうことで、ならば草として密かに使おうということだ。
草とは、その土地に地元民として溶け込ませ、それと

なく探らせるというもので、まさに忍ぶ役割をはたす者。
暮らし向きに必要なものは与えられるから路頭に迷う
こともない。

香月の聞くべき話ではなかった。女二人が向き合う出
っ張り岩を通り過ぎ、少し先の岬の突端に立って眩く
光る日輪を見つめる香月。はるか眼下の岩礁に波が

砕ける音がする。嵐の予兆か海が荒れる。

しばしの間を置いて早月がそっと歩み寄った。
「去ったよ」
香月に声はなかった。
「草となれ。それがあたしらの生きる術。忍びは忍び
なのさ。蹴れば皆が困ることになるからね」
香月は海を見たまま。
「ここを動くか?」
「住処は用意されている。熱海の山深い中にある桂妙
院という尼寺らしく、ずいぶん前に住職が死んで放置
されているそうで。そこを根城に我らは散る」
「散る?」
「それも用意されてるさ。熱海の旅籠だったり吉奈の

湯治場だったり、あるいは街道筋の茶店だったりする。
いずれもいまは甲賀衆の潜み処だが、そこを任せた

いということで。ずいぶん穏やかな役目が与えられた

もんだよ。どこから誰が来て誰と会った。あたしらは

それを告げるだけ。それぞれの元へつなぎが走る。

あたしら手出しは無用でね」
「おまえはどこに?」
「頭だからね、寺にいて皆に差配するだけで。お里は
若すぎて使えない。お里と二人、寺で暮らす」
「いつ動く?」
「今宵すぐに。ここで散って行き先はそれぞれ。あたし

とお里は姉妹ということでともに動くが、そのほか滅多

に会えなくなる」
「寂しいな」
「とんでもないよ。草は土着で生きていく。男でもできる

なら夫婦になるも自由だしね」

香月と早月は海を背にして並んで歩く。ついいましがた

まで光芒を放った日輪は、すでにもう雲に隠れて滲ん

でいた。
「そうなると、さて俺だ」
早月は別れを覚悟していた。
「まずは名を変えよう」
「名を?」
「俺などさしずめ柳生九兵衛」
と言いながら香月は苦笑した。
「九兵衛? またどうして?」
「柳生の伝説、十兵衛殿まで、なんか足らない。だから

九兵衛」
早月は笑った。別れを覚悟したのに、そうではなかった

安堵の笑み。
「ま、てえのは冗談で、のたれ死に寸前の浪人が転がり

込んだということで日をずらして後を追う」


それから二日。

山深い中にある尼寺とやらは、桂妙院とは名ばかりの
朽ちかけた寺だった。いまにも崩れそうな庫裏の中で、
厨と寝所だけはどうにか整えたものの女二人の力では
とうてい及ばず、風呂などはかろうじて目隠しのある露

天風呂。厠にいたっては土に掘った穴に板を渡してしゃ

がむようなもの。狭い境内は草むらのありさまだった。
忘れられた破れ寺に流れ者が住み着いた。ごく自然に
そのように思わせるため、あえて手は加えない。
この頃の熱海の山は地元の者でも滅多に立ち入らない
自然林がほとんどだった。この寺のありようからして十

年以上は放置されたまま。鬱蒼とした森に飲み込まれ

る寸前といった様子である。

であるにもかかわらず、板戸の押し入れには二組の夜
具一式。古い煎餅布団なのだがしっかり干してたたん
であった。
厨には、あえて泥まみれにした鍋や釜、包丁そのほか、
つまりは身ひとつでやってきて暮らせるよう、あるべき

ものは揃えてあった。
寺の裏から山へ入ると、少し上り、そこからは下り傾斜

で沢へといたる。水はある。薪はそこらの林床に朽ち木

がこれでもかと落ちているから、とりあえずは困らない。
すり切れた粗末な着物にたすき掛け、着物の裾を上げ
て姐さんかぶり。早月もお里も埃まみれ。

そんな夕刻のことだった。森に墨が流れはじめ、粥と
メザシだけの夕餉に向かったとき、かすかだが森の奥
から小枝を踏み折る音がした。音は軽い。獣なのかと
思ったが、草を掻き分けて男の子が現れた。
子供の顔は泥まみれ、薄汚れたいでたちで十歳ほどか
と思われた。男の子はふらふらしながら歩み寄る。
早月が問うた。
「おまえ、そのなりはどうした? 森ではぐれでもした

か?」
子供は弱々しく首を振り、涙を溜めて森を指差した。
「何だ? どうした?」
「オラ松崎村のもんだ。部落が山賊に襲われて」
「何だと? 山賊に?」
「オラたち逃げろと言われて」
早月とお里は顔を見合わせ、立ち上がった。
「どっから来た? おまえの名は?」
「韮山。オラは勘太」
韮山・・ここからでは遠い。子供の脚では何日かかるか

知れやしない。早月は、まだ小さな勘太の両肩に手を

やって目を見つめた。
「森ん中にまだいるんだ」
「まだいる? 何人だい?」
「オラのほか四人だ。歩き疲れて倒れちまって動けない

童もいる」

早月もお里も仕込み杖をひっつかむ。勘太に先を行か
せて後を追った。
山に踏み込み、沢へと出て、さらに少し上流へと歩いて

行くと、子供らばかり四人がかたまってうずくまっていた。

男の子が三人、女の子が一人。男の子の中の一人は

四歳ぐらいで、ぐったりして動かない。右の脛にかなりな

引っ掻き傷があり、脚が赤く腫れていた。
早月は子供の胸に耳をあて突き揺すってみるのだが、
遅かった。体がまだ温かく、絶命して間もないようだ。
傷から悪い菌が入ったものと思われた。

 

「この子はだめだ、死んじまってる」
 

子供らが声を上げて泣き出した。早月もお里も怒りに
震え、しかしそれより残った子らを守らねば。
「おまえたち飯は? 喰ってないだろ?」
この四日まともなものは喰ってないと子らは言う。
「歩けるか? すぐそこだ、ついて来れるか?」
子らはうなずき、ふらついて立ち上がる。
早月はお里に言った。
「おまえは戻って粥をつくれ。ありったけの米を炊くん

だ。メザシもだ」
「わかった!」
お里はうなずき、すっとんで寺へと戻る。

死んだ子供は、とりあえず置いていくしかない。汚れき

った着物にくるまれたいたいけな姿を、奥歯を噛んで

見下ろすと憤怒の思いが衝き上げてくるようだ。

そうしてお里が寺へと駆け戻ると、髭面の猿がいる。
「よっ、お里」
「旦那ぁ! 遅いよサンピンっ」
胸に飛び込んで涙を溜めるお里。話を聞いて香月は刀
をつかみ、森の中へと駆け込んだ。
ちょうど早月が森の口に現れた。
「少し先にもう一人。だめだった、死んじまってる」
早月の声も震えていた。
「わかった、埋めてやって、それから戻る」
夜の森には野犬もいる。せめて獣の牙から守ってやり
たい。小さな屍を抱いて寺のそばまで戻り、朽ち木の棒

で穴を掘る。少し先の林に人影を見たのはそんなとき。

香月は刀に手をやりかけたが、歩み出たのは明らかに

小僧。腰には山刀、小振りの弓矢を持っている。さらに

その腰に捕らえた兎を二羽ほど提げていた。

「おまえは?」
「謙吉と申しやす。オラ猟師だ」
「そうか。このへんで狩るか?」
「そだ。オラの村はこっから遠くねえ。飯の匂いがした

から来てみた」
歳の頃なら十七、八か。男としては小柄だが、山で鍛え

られて胸板が厚い。目のパッチリした青年だった。
「その子、死んだんか?」
「山賊に襲われて逃げて来たらしい」
「それならオラの村も襲われた。だがオラたち猟師だ、男

は強いぜ。弓もあれば槍も持つんでな。追い返してやっ

たさ」
「ここらは出るのか?」
「ああ出る。箱根あたりからここら一帯。韮山から吉奈あ
たりも」
「賊の根城はわかるか?」
「知らん。根城なんぞあるのかもわからん。役人どもが

追ってるが、奴らすばっしこくてな。オラも手伝うぜ」
「うむ、すまんな」
男二人で穴を掘り、亡骸を埋めてやって、墓石代わりに
丸石を置き、手を合わせる。

寺に戻った男二人。謙吉は腰に結んだ二羽の兎を差し
出したのだが、若いお里を一目見るとぼーっとしている。

お里の方でも歳の近い謙吉に恥じらう様子。
子供ら四人は、粥とメザシ、それに兎の焼き肉をたらふ

く食うと倒れるように眠ってしまう。夏だからいいものの、

二組あった敷き布団に掛け布団が子供らに奪われた。
「今宵はオラもここで寝る。これからだと暗くなる。明日

にでも村に戻って食い物なんか持ってくる」
早月が問うた。
「それは嬉しいけど、戻らないと心配しないかい?」
「なあに、一晩ぐらいよくあることさ。野宿なんてへっちゃ

らなんだし」
若いが強いと早月は感じた。お里の心が揺れているの
も見てとれる。さっそく土地の者と知り合えた。忍び草と

は、そうして土地に溶けていくもの。

翌朝早くに寺を出た謙吉は、昼前になって、見るからに

屈強そうな山男たちを引き連れて戻って来た。男ばかり

七人。軽々と夜具をかつぎ、食い物をこれでもかと提げ

てやってくる。
村長と名乗る知蔵が言った。四十年配の熊のような男

であった。

「おまえら、ここに暮らすんか?」
香月が応えた。
「三人揃って流れ者でね。朽ちた寺を見つけて留まるつ

もりでいるんだが」
「そうか。なら謙吉を置いてくぜ。困ったことがあれば言

いつけてやんな。おい謙、しばらくはここに留まり食い物

を狩ってやれ。寺もぼろぼろ。手直しも手伝ってやるん

だぜ」
「へい、それはもう。けどよろしいんで?」
「かまわん。山の子らを救ってくれた。見捨てれば我ら

の恥よ」
「へいっ!」
謙吉は明るく笑った。お里に惚れたようでもある。
それにしても男手は助かる。男二人、さっそく寺の直し

に取りかかる。子らも一晩眠って元気になった。

それまでとはまるで違う暮らしがはじまる。

夜になって寝静まり、外に気配。早月が起き抜け、その

気配は香月も感じていたが、外は穏やか。お里と謙吉

は、狭い本堂に布団を並べて眠っていた。
甲賀のつなぎ。ツギハギ迷彩の忍び装束を着た男が二
人。
「当座はこれで」
あえて使い古した小銭ばかりを袋につめて十両ほどか。
早月は言った。
「韮山あたりに山賊が出たそうだ。何かつかんだら知ら

せておくれ、許せない」
男二人は顔を見合わせる。忍び草は目立つことはしな
いもの。だが早月は言い放つ。
「あたしらだけじゃないんだよ、山の者たちも怒ってる

んだ。あんたたちは手出し無用、山の者とともに戦う」

その同じ頃、江戸は高輪の武家屋敷。
「御前様」
と、甲賀のくノ一。
「調べはついたか?」
「はい、わかりましてございます。男の名は香月宗吾、
岡崎藩剣術指南役、香月左ノ介が嫡男にて齢三十。

齢二十二にしてすでに柳生新陰流免許皆伝。その後

免許を紛失するも再交付済み」
「なんだそら・・そうか岡崎藩の」
岡崎藩といえば、いまの愛知県。御三家尾張藩の身

内のようなもの。徳川家康は岡崎城で産まれている。
くノ一は言った。
「父親の公金横領、プリン喰いたさのおうちカフェ通い

が発覚し、宗吾はその父を斬り捨てて脱藩した由。
いまから二年も前のこと。岡崎藩はそれで救われ、宗
吾の脱藩も放免した由」
「ふむ、なるほどのう。そういう輩を取り込めたとは吉

報かも知れぬな。もうよい、お下がり」
「はっ」

音もなく消える影。

廊下に立って三日月を見上げる老爺が、ぼそりとつ

ぶやく。
「早月の奴め、いい男をつかまえたものよのう」
ふっと微笑み、老中、橋上辰ノ進は月光に背を向けた。

ちなみに免許皆伝とは、その流派の師が弟子に奥義

のすべてを伝え修行の終了を認めること。堂々と流派

を名乗れるのはそれからということになる。