くノ一 早月(二話) | 潤 文章です、ハイ。

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俺のペンネーム。ジュン・フミアキである。

くノ一 早月(二話) 蒼い海原

残る敵は二人。しかし男どもは後ずさり、香月の剣

から顔をそむけるように逃げ去った。先に倒した

二人がまだしも使い手。若い二人の勝てる相手で

はないと見切ったようだ。

ヒュンと剣を振って血を飛ばし、鞘におさめてそれ

から、香月は早月に横目を流した。早月はそれで

もまだ警戒し、抜いた剣をどうしたものかと戸惑う

様子。
「しまっちまえ」
早月はそれに応えず、剣をだらりと提げたまま。
香月はちょっと笑って首を傾げるそぶり。

とても勝てない・・と早月は思う。

「わかったよ。危ないところ、すまなかったね」
早月は払って捨てた鞘を拾い、音もなく剣をおさ

めた。
香月が言った。
「ルール、その一、余計なことは言いっこなしだ。

行くか」
「どこへさ?」
「さてね、俺は気まま。おまえさんは?」
「あたしだって」
早月ははじめて、ちょっと笑った。かすかながらも

妖しい色香を放つ笑み。

つかず離れず、男女の間合いに半歩足りない連
れ合い歩きで山を越える。そろそろ夜陰。箱根が

黒くなりだした。
「今宵の宿は?」
「ううん特に」
早月はハラハラ。なぜか喉が渇いてくる。
宿場ではなく小さな寺へと転がり込む。狭い本堂。

庫裏には老いた住職一人きり。
宿場までにはまだ少し距離があり、ふたたび修羅

場となれば町人を巻き込むこととなる。

握り飯を喰わせてもらい、本堂に夜具を並べて、
それから湯。年季の入った粗末な板風呂だったの

だが、湯は澄んでさらさらしていた。
桜色に上気する早月の頬。宿ではないから寝間着

もなく、互いに着直して横になる。
今宵は肩の欠けた丸い月。明かり障子越しに射す

光が蒼かった。
「おまえさん、浪人なんだね?」
薄闇の底から板床伝いに声がした。
「二浪だ」
「は? 二浪って?」
「なんでもない、こっちのこと。浪人と言えばそう

なんだろうが、まあ、逃げ出したということか」
「どこぞの藩から?」
「取り巻くすべてが嫌になった。独りになりたい。

ただそれだけ」
「ふーん。若いのにね」
「おまえさんだって若いじゃねえか。くノ一にしとくの

はもったいねえや」

女床のかすかな衣擦れ。早月は香月を向いて横寝

になった。香月は大の字。いまにも剥がれ落ちそう

な板張りの天を見ている。寺は古く、木という木が

黒くなって錆びている。
「じきに三十路さ」
「なら一学年下だ」
「えっえっ? 一学年?」
「なんでもない、こっちのこと。親を斬って逃げ出し

た」
しばし沈黙。早月は言葉を支度できない。
「・・親をかい?」
「サイテーの野郎だったさ。プリン中毒でな」
「えっえっ、ぷりん中毒って?」
「こっちのことだってば。いちいち気にするな」

「怪しい男ね」
「妖しい女め」

早月は笑った。
「それは言える、怪しい女さ、あたしって」
「字が違う」
「喋ってるのに、字の問題じゃないだろう」
「妖艶の妖、妖しく、そして香り立つ何か・・」
「臭いかい?」
「ばーか、コノぉ。妖しく、そして香しい女の素性。

蛇のごとく取り憑かれ、噛まれているのに心地い

い」
「詩人だね」
「恋は人を詩人に変える」

声を上げて笑う早月。
「バカだよ、この人は。あははは」
「早月を知って逃げるほど賢くはないのでね。
捨てろ」
「捨てろ? 何をさ?」
「江戸に入られては困ると聞いたが、その役目。
どうせ利用されるだけのもの」
「捨てて、どうしろと?」
「捨てたおまえを俺が拾う」

「嬉しいよ、ありがとね」
「ふふふ・・ZZZZZ」
「寝るってか、おい! ったく、ばーか。あたしなら

よかったのに・・」
拗ね心を囁いて、早月は穏やかに微笑んで目を閉

じた。

翌朝、寺を出た二人。男女の間合いぎりぎりの半歩

違いでそぞろ歩く。空は青い。初夏の色だ。
箱根を過ぎて、なのに早月は江戸には向かわず海の

側へと香月を誘った。
かなりな坂を下りきる少し手前、そこもまた鬱蒼とした

海森の中に、漁師の番小屋そのものの寄り場があっ

て、若い女ばかり七人が群れていた。

「あ、お頭様だぁ!」
若い。いかにも若い娘が声を上げた。陽に灼けて顔

が黒い。
「ほう、おまえさんが頭とは」
香月が横目を流し、早月がちょっと笑って歩み寄る。
小娘の声を聞きつけて、女たち六人が顔を出す。皆が

若く、確かに早月が歳上のようでもあった。
最初に見つけた小娘がきゃっきゃとはしゃいで早月の

周りにまつわりついた。
「お里ってんだ。歳は十四」
お里は、見るからに不審な香月にキラキラとした目色

をなげて、早月と目だけの会話。

(どういういきさつ?)
「香月様さ。危ういところを救っていただいた。柳生新

陰流の達人だよ」

お里の目が丸くなる。瞳孔が開いた女の瞳は、磨き上

げたオニキスのように艶がある。
「和牛新陰流って?」
「こらバカタレ、焼き肉屋じゃあるまいし。柳生だよ」
「野牛?」
「字が違う。牛から離れろ」
「喋ってるだけじゃんか。字の問題でもないでしょが」
「やかまし。ナマ言いやがって」
「なんてね。へへへ、知ってるよん、柳生新陰流ぐら

いわかるって。マジで返してやがる、ウブな人だよ」

「て、てめえ! しまいに斬るぞ!」
「ベェーだ。毛むくじゃらの猿侍が。きゃははっ」
駆け去るお里に、香月は、くっと声を上げて笑った。
早月が駆け去るお里に目を細め、小声で言った。
「気に入ったみたいだよ、旦那のこと」
香月は笑って首をちょっと振る。
「あっけらかんと明るい娘だ。くノ一なのか?」
「そうさ。ここにいる者みんな忍びでね。さあ、一休み

してくださいな。あたしはちょっと皆に話が」
明るくなって寺を出て、のたりくたりと歩き通し、それ

でも昼下がりをとうに過ぎた。

海の小屋は板は古くても潮風を浴びているから腐り

にくい。しかし小屋は一軒だけ。しかも小さい。
「早月、これを」
大小どちらも腰から抜いて早月に手渡す。丸腰は敵

意のなさを示すもの。女たちは嬉しかった。

小屋を背に少し歩むと、海原を見渡す丘に出る。

ここらは伊豆の首根っこ。東伊豆は外海で風がなく

ても波は荒い。
出っ張り岩に腰を降ろす。薄曇りで陽射しはそれほ

ど強くなく、海は穏やかなほうだった。
背に気配。お里であった。
「見張ってろと言われたか?」
「まさか。お頭はそれほど狭くない。座っていいか?」
「うむ座れ」
「じゃあ、ちょっと」
隣りに腰掛けた、お里の粗末な着物が一陣の風にた

なびいて、よく灼けた腿までまくれ上がる。しかし、お里

は気にもとめない。

「お頭を救ってくれたそうだね」
「いやいや、それほどのことじゃねえ。見過ごすわけに

はいかなかった」
「ありがと」
チラと横目をやると、お里はドキリとするほど女の目色

になっている。陽に灼けた横顔は若く、そしてすがすが

しい。
「すまぬな、お里」
「何がだい?」
「ガキだと思った。許せ」
お里は黒目をくるりと回して微笑み、そして言った。
「お頭の目の色でわかったさ。旦那はいい男だね、お頭

が惚れるわけだよ」

香月はちょっと息を捨てて、海原を見渡した。

「あたしは十四さ。お頭は見てのとおりでべっぴんだ。

十五の歳から枕働き」
「枕働き?」
「色仕掛けってやつさ。辛い役目だ。毒を盛り、あると

きは首を掻き、そうやって働いてきたんだよ。女だもん

心は汚れる。震えちまって眠れない。恐ろしい夢だって

見るはずさ。けどそんなことはおくびにも出さなくてね。

見ていてたまらなくなってくる」

香月は応えなかった。

「あるときドでかい仕事があってね。幕府の大物に毒を

盛った。命からがら逃げ延びて、その褒美に一族は

役目から解き放たれた。あたしら風魔の末裔でね」

「ほう、風魔・・」

「で、そんとき、その仕事を最後に我らは散ったんだ。

仲間を連れて出ていいってことになり、あたしらを連れ

て忍びを抜けたってことなんだ」
「では、いまは?」
「ふふんっ、やっぱり忍びさ。忍びは飼われていないと

喰っていけない。お頭はみずから選んで忍びに戻った。

江戸のさるお方の・・おっと口が過ぎたか・・」

ひどく大人びた口調。若くても、そうした早月の背を見

て感ずるものがあるのだろうと、香月は察していた。

「さて夕餉の支度」
「おまえがつくるのか? できるんか?」
「できるさっ、あたしだって女だよ。薪割りだって、へっ

ちゃらなんだし、風呂焚きだってやるんだぜ」
お里が立って、その背を追って香月も岩を離れた。