武田氏館もしくは躑躅ヶ崎館 〜日本百名城(その24) | カイザーのブログ

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少し暑さも和らいで来たお彼岸3連休中2019年9月22日に、

山梨県に向けてドライブ。

 

最初の目的地は、戦国時代武田氏の本拠であった館の探訪。

 

ご存知、いまだに山梨県の人にとってはヒーローの武田信玄(晴信)

を中心とした、信虎〜晴信〜(諏訪)勝頼が3代にわたって拠点と

した城跡です。

 

現在は武田神社が跡地に建立されており、わりに保存状態も良い様子。

参道を登って来て、そのまま堀にかかる朱色の橋を渡って、主郭に入ります。

 

しかし実はこの橋は神社のために作られた道路であって、本来は堀があるのみ。

実際の大手道は写真右側の方にあり、ぐるっと回るのが当時の登城ルートだったようです。

 

(解説板)

西の曲輪前には武田流(甲州流)築城術の特徴である馬出しがあったようです。

 

 

上記写真の端に石垣が写ってますが、これは後世のもので、実際は土塁が当時は

築かれていたようです。

解説板の写真の左下に主格の土塁の断面写真が写っています。

(これは石垣の補修の時に撮影した様子で、普段は見えないのが残念。)

 

 

門の跡地。石垣と

これは主郭と西の曲輪をつなぐ部分に構築された門とその石垣の跡。

 

西の曲輪は、信玄(晴信)の嫡男であった義信が今川義元の娘と結婚した時に

新居として築造された曲輪だそうです。

 

ここは西の曲輪の北の土橋で、両側が深い空堀になっています。

 

館跡自体はよく保存されているのでしょうが、神社の建物やら能楽舞台などが

新たに建築されているので、古城といった趣にはやや欠けます。

 

また、中世の館をベースに戦国大名としての城への転用を図ったという歴史から

わかるように、実際に訪問すると意外に狭いです。おそらく数千という軍勢を

動員しての攻城戦、ましてや鉄砲登場後の攻城戦にはとても耐えられそうもない。

なので、勝頼は新府城を築城しようとしたのでしょう。

 

ぐるっと一周を歩いて回る時間があれば、なお楽しめるかもしれません。