上田城 〜日本百名城(#27) | カイザーのブログ

カイザーのブログ

ブログの説明を入力します。

2019年10月05日に訪問した上田城の記事。

 

台風による災害・千曲川の氾濫被害を受ける前の週末に、真田昌幸で

有名な上田城を訪問しました。

 

武田家滅亡直後の織田信長の死により、甲信地方をめぐる覇権争い

が激化。武田家傘下の国衆であった真田氏が越後の上杉景勝、あるい

は関東(上野)からの北条氏政の侵攻に備えるために、徳川の援助を

得て、1583年に千曲川沿いの上田の地に築城したのが上田城です。

 

尼ヶ淵と呼ばれた千曲川(信濃川の支流)を後背地に、後ろ堅固の

城として建てられたことから、尼ヶ淵城とも呼ばれたようです。

 

その尼ヶ淵沿いの無料駐車場に車を停めて、北を見やると、本丸が

崖の上に早速見えます。

 

(本丸西櫓)

数多くあった櫓も現存するのは3棟のみ、そのうちで往時のまま

の姿を残しているのが西櫓だそうです。

 

そのまま石垣沿いに見渡すと南櫓と断崖上の石垣が見えます。

 

徳川家の援助で築いた真田氏の上田城ですが、甲信地方の覇権争いの

終結後、北条支配下に帰属の決まった上野国内の領土の処分を巡って、

真田昌幸は徳川家康に抵抗。

怒った家康が攻め込んだことから第一次上田合戦が始まります。

 

帰趨はご存じの通り、真田昌幸の勝利。秀吉の仲介もあって、終戦

となります。

 

駐車場から階段を登って、いきなり本丸脇に登れます。

 

(本丸西虎口)

登ったところにあるのがこの西虎口と西櫓。

 

(場内案内図)

この上田城は関ヶ原合戦の際に中山道を行く徳川秀忠率いる徳川本軍の37,000を

迎えうち、第二次上田合戦の場となりました。この結果も真田昌幸の率いる城側が

徳川方に勝利し、足留めをくらった形になった秀忠軍が関ヶ原合戦に参加できな

かったことは有名な史実です。

 

このように勇猛な徳川家を相手に二回も籠城戦で勝ったことで、上田城の名と

真田家の名が世にとどろいたわけです。

 

その後、父親とは異なり、東軍側についていたことで本領安堵された真田信之

(昌幸の長男)が入場しますが、城は破却。

 

さらにあとを継いだ仙石秀久のあと、2代目の忠政によって、近代城郭として

整備され、いまの形になったとされています。

 

(本丸東虎口櫓門)

本丸と二の丸をつなぐ東側の入り口(虎口)には櫓門が復元されています。

 

左にある南櫓と右にある北櫓は元々上田城にあったものですが、明治期に他所に

移されて利用されていたものを、再び移築してきたものだそうです。

 

(真田石)

 

上の東虎口櫓門の右側にある巨石が真田石。

 

城廓の威厳と格を示すために門のそばに巨石を置くのは織豊期の築城法の定石

ですが、この上田城を現在の姿に整備したのは仙石忠政であり、この巨石も

その時代に設置されたものだそうです。

 

 

復元された東虎口櫓門は見学することができ、中には説明資料の他に模擬種子島銃

が置いてあり、石垣下の敵兵を狙撃する気分が味わえます。

 

本丸内の土居。

 

交通の便も良く、上田市内の平城でもあり、歩き回りやすいことから真田ファン

ならずとも訪れる価値はあるかと思われます。

 

(2019.12.09アップ)