1958年式ポンコツ -23ページ目

1958年式ポンコツ

歳と共に記憶が曖昧だなぁと感じ記憶が飛ぶ前に綴っていこうとブログをはじめました。
主にフィリピンの事やスーパーカブ・日常がテーマになりますが宜しくお願い致しますm(__)m

フィリピンの朝は早い

ニワトリのコケコッコーと共に起こされます💦

まだ早いっちゅうねんもう少し寝かせてくれ❗

珈琲飲みながら一服して☕

子どもたちを起こしスキンシップ🎵

みんなで一緒にごはんを食べて🙏

子どもたちは学校に行き

僕と彼女も仕事に向います。

極々あたりまえの日常ですがあたりまえに感謝ですよね🙏

降りれないヤツ(笑)
これも日常👍

ウチには僕と彼女と子どもたちそして犬や猫などが一緒に暮らしています。

犬や猫は子どもが生まれていただいた子もいればノラなど自由きままな子もいました。

僕は子どもの頃からズッとばあちゃんと犬と一緒に暮らしていて犬とはいつも一緒で

ばぁちゃんが怒ると僕を守ってくれて僕にとっては強い味方でもありました(笑)

フィリピンに初めて行った当初もタガログ語がまったくわからず唯一日本語で

愚痴を聞いてくれたのがローカルレストランで知り合ったノライヌでした。

そんなウチの家族を今回は紹介していきますみんな顔出しOKだし(笑)

朝はいつも僕の座布団を占拠し寝ているノラ

悔しいので早く起きて先に陣取ろうと思ったらふてぶてしいアクビをするノラ

ついでに外キッチンのマットで子どもを産んでいたノラ😁

産まれたといえば裏庭で声がするので覗いてみたらノラの子がいたりもしました❤

可愛い♪

産まれた時から一緒だったメルも出産✨                                                 

産まれた時の感動は今も忘れません🤗

子守りと護衛はノラ♪                                               

そんなノラも甘えん坊♪

帰国した頃は街にも多摩川というところにもノラたちはたくさんいて会いに行くのが

僕の日課になり癒しでもありましたが河川工事が始まりノラの姿は消えました。

噂では保健所が来てノラネコを数多く捕まえていたと聞きました。

 

以前のブログにも記したのですが日本では共存はむずかしいのでしょうか?

人間が人を殺して死刑になるのは百歩譲って理解できるとして

野良たちは人間が生活しやすいように生きているだけで殺される事もあるって

悲しい事だと思います。

ただ可愛いからとか流行りだからだとかで高い金出して買って飽きたからとか

流行りは去ったとかで平気で捨てるヤツは鬼畜以下だと思います。

動物にだって同じ赤い血が流れているんです

考えてみれば仕事で旅行する事はあっても家族では行った事はないなぁと思い

みんなに旅行に行こうと提案したら大ハシャギだったのでどこに行こうか相談し

みんなのスケジュールや彼女のイチゴが食べたいというとみんなも賛成したので

バギオというところに決まりました。

車で約6時間半という事で朝日と共に出発しバギオ目指して車を走らせました。

途中にアンヘレスという文字の案内標識版に無意味に反応ワクワクドキドキしながら

行きたいという思いを押し殺して我々一行はバギオを目指すのであった!


アンヘレスというところはGOGO BARなどが建ち並ぶ男のパラダイスなんです❤

バギオは標高約1500メートルと高いので近くになると急コーナーと急な坂の連続で

途中オーバーヒートしている車もいて前日に点検しておいてよかったと思いながら

走っているとイチゴファームの看板が見えてきてみんなで美味しくいただきました。

僕個人の意見ですが日本のと比べると少しすっぱく感じましたが食感はイチゴでした。

夕方近くまで目一杯みんなで遊んで食べて飲んで街に向いました。

みんなと相談している時に普通にホテルに泊まるのは面白くないから

予約もしないし地図も見ないで現地の人に聞きながらゲーム感覚で宿を探そうと

提案したらみんな大賛成だったので街に着いて宿探しから始まりました・・・が

イチゴファームで転げまわるくらい遊び満腹になるまで飲み食いしたので

彼女も子どもたちも満足そうな顔で気持ちよく寝ていたので走りながら

何人かに声をかけ宿を探していたら一人の方がウチも宿を営んでいるから来いと

いうのでその方が乗ったトライシクルの後ろをついていくと木造でちょっと古い

日本の旅館みたいな建物の前に着きました。

するとその方はここの上に車を停めろというのですがすんごい急斜面!

大丈夫かなぁとサイドブレーキを引き降りたらなんとか保っていてくれたので

宿の中に入るとやはり日本風で彼女に日本の宿みたいだと言ったら

ふ~んと嬉しそうな顔をし子どもたちも楽しそうでした。

みんなよほど疲れていたのか夕飯食べたらすぐに寝てしまい翌日は朝早くから

近所を散策したりマーケットで買い物をして楽しみお昼からは温泉に行きました♪

ここは宿から車で30分くらいのところにあるホットスプリングリゾートというところで

温泉だと喜んでいたらプールじゃんと!

でも子どもたちは楽しそうだったのでマイッカと思っていたら温泉はアッチだよと

いうので付いていったらありました温泉

入ってみると少しぬるめのお湯でしたが雰囲気は温泉で写真を撮るのを忘れるくらい

気持ち良くてというか疲れで寝てしまいました。

夕方まで遊んで宿に帰り一休みして夕飯を食べに夜のバギオの街を散策して

翌日は家路に向いました。

バギオの印象は治安も良く人がとても優しくてフレンドリーな方ばかりでした。

2024/11/03現在ジェニーや他の子どもたちは結婚して孫ができたり就職したりで

家を出ていますが今もウチには6人の子どもたちがいて僕は今日本なのですが

彼女やポリス近所の方々が子どもたちの面倒をみてくれています。

子どもたちのなかには僕ら大人が経験した事のない辛い経験をしてきた子もいます。

そしてストリートチルドレンってなんぞやというメッセージもいただいたので

今日はストリートチルドレンについて少しお話をさせていただきます。

ストリートチルドレンとは主に家族や家のない子もしくは家計を支えるために

学校にも行けず路上で働く子どもの事を指します。

子どものなかには幼い兄弟の面倒をみながら働いている子もいます。

帰れる家がある子はいいですが帰れる家のない子は路上が家になります。

路上で仕事や生活していれば事故や事件も多いです。

事件とは薬物中毒・性暴力・人身売買のための誘拐などさまざまです。

家族や家があっても親はその日の生活費を稼ぐ事で精一杯なため子どもを学校に通わせる

余裕はなく子どもも働き本来学ぶべき読み書きや計算ができまいまま育ちそのまま

大人になりますから収入の安定した仕事にも就けず親と同じ道を辿り負のスパイラルが

続きます。

政府はストリートチルドレンを増やさないためにさまざまな法律を制定してきましたが 

根本である貧困が解決しないかぎりは法律も無意味というのが現状です。

そんな状況だったら無責任に子どもを産まなきゃいいと言う方もいらっしゃいました。

しかしこの国は宗教上の理由で簡単におろす事はできません。

そしてフィリピン女性は愛があれば避妊具を嫌う子が多いです。

ですのでストリートチルドレンを少しでも減らすためにもお願いがあります。

ウチで預かっている子どものなかにはお父さんは日本人という子もいました。

話を聞けば子どもができたと告げた途端に音信不通になり日本のどこにいるかも

わからず子どもを育てて仕事をするのは困難という事で預かったのですが

てめぇらだけいい思いして子どもができたらハイサヨナラはないだろという事で

その紳士様の名前と女性の情報を頼りに日本に帰国しその紳士様を探しました。

探し当てたらその紳士様はご結婚をされており立派なお子さんもおりました。

呼び出して話をすると素直に応じてくれ毎月養育費を送ってくれています。

なかには彼女も日本のビザ目的だろとか気持ちいい事したんだからお互い様だろと言う

紳士様もおられましたが・・・

犠牲になるのはいつも子どもたちなんです。

 

 

こどもが二人増えた事で生活費がかさむだろうなぁと思っていましたが

元々ジェニーも彼女や二人の兄弟もスクワッターエリア(貧困地区)育ちだし

僕も約半年間お世話になったので彼女がやりくりをしてくれたおかげで

以前の生活費とかわらないくらで暮らせていました。

今回はそんなお金の事を少し記していこうと思います。

1000フィリピンペソの裏に描かれた棚田はルソン島北部イフガオ州にあり

天への階段とも称されています。

1995年には世界文化遺産にも登録され2000年以上前にイフガオ族が神への

捧げものとして造ったとされ文化と共に守り継がれてきたところです。             

そして紙幣表に描かれている3人の方は第二次大戦時に日本軍によって処刑された

人たちで1000ペソ札の左上の男性はホセ・アバド・サントスという人で

当時の最高裁長官をしており大戦中は日本軍が支配していない地域の最高責任者の

位置にありましたが日本軍に逮捕され日本軍から『日本軍に協力すれば処刑しない』

と言われたものの拒否し処刑されています。

1000ペソ札下の女性はジョセファ・エスコバという人で彼女は教育者で

ガールスカウトを創設し活躍していたのですが夫とほぼ同じ年に日本軍に逮捕され

サンチャゴ要塞に収監され1944年にマニラ中国人墓地で銃殺刑にされており

埋葬場所は現在もわからないということです。

1000ペソ札の右上の人はヴィセンテ・リムという中国系の人ですが

フィリピン人としては初めてアメリカのウェストポイント士官学校を卒業した人で

同じく日本軍によって処刑されています。 

こうした3人の日本軍の手で処刑されていった方が一番大きな金額の紙幣に

載っている事実を見ても『フィリピンは第二次大戦時の日本軍占領を永久に

忘れない』という強い意志を感じます。                                          

     しかしこんな事が過去にあったとしてもお年寄りから子どもたちまで友好的で
    いつもあたたかく出迎え接してくれる比国人に改めて感謝な気持ちになります。