梅雨明けも間近ではないかといわれる昨今、晴れ間が覗く時間も少しずつ増えてきたように感じます。それにしても近年西日本を中心にした集中豪雨や、都心でもゲリラ豪雨なる現象が頻発しております。

 自分が生きてきた短い年月の中でも、異常気象という言葉は数限りなく聞いてきましたが、このゲリラ豪雨もそれにあたるのでしょうか。

 地球に住む人間の立場としては、今までにないパターンや予想外の気象状況となれば、異常気象という事にしたくもなりますが、それらの状況も何らかの、これまでにない条件が原因となって起こっている現象であり、それらの条件は人間が提供している事が往々にしてあります。それだけに起こっている側からすれば、"異常"などと言われるのは心外なのではなかろうか。

 特に20世紀後半くらいからであろうか、様々な分野の発展にともない、地球温暖化や環境破壊が叫ばれるまでに至っております。そしてエコロジーという言葉が浸透し、環境への注意喚起は一般家庭や個人レベルにまで及んでいます。

 "みんなの地球"、"地球を子孫へ"などという表現とともに、エコロジー、環境保護を訴えるのをよく目や耳にします。

 問題発言かもしれませんが、果たして本当に"みんなの地球"なのでしょうか?そして本当にみんながそう思っているのでしょうか?



 以下に述べる事は自分の考え方のごく一部をひねった、誇大妄想のひとつになりますので、この考えを主張したりそれに沿った行動をとるつもりは毛頭ない、という事を先に申し上げておきます…。


 自分(私)の意識は自分(私)にしかなく、他人の意識はそれぞれの他人にしかありません。当然自分は他人にはなれませんし、他人も自分(私)にはなれません。従って、他人の世界と自分の世界は違うものかもしれませんし、そもそも他人の意識というものがあるかどうかすら、本人以外は確認する事はできません。独自の意識、意志をもつ他人なんて、本当に実在しているのでしょうか?

 では、目に見え、触れる事が出来、それぞれの意志を持つかのような他人の存在や現実世界は何?っていう疑問が生じますが、現実世界を超えた文明の力によるもの?全てを超越した絶対的存在の力によるもの?

 まともに考えれば、実にばかばかしい話ではありますが、自分の世界にいる他人も自分の世界の住人であり、自分を取り巻く現在過去未来、数十億年続く地球の歴史や未来、それ以上続くとされていれる宇宙も全て含めて、自分専用の世界なのではなかろうか?知っている事も知らない事も、知っている人も知らない他人も、考え方や思想も何から何まで全て自分専用の世界のものなのではなかろうか?
 では、自分一人のための世界の中に、影響を及ぼすほどではないものたちの存在や、知らないものや、過去や未来という概念が必要なのか?
 自分専用の世界にも、あってもなくてもいいものや分からない事、過去や未来などという考え方がなければ、自分自身もおかしいと考え辻褄があわなくなるかもしれません。また、"これは自分専用の世界だ"と確信してしまうかもしれません。そのため、何からの絶対的存在によって完璧に作り上げられているのではなかろうか?その絶対的存在とは、もしかして自身の脳なのか、"神"と称される存在なのか何なのかはわかりませんが。

 そう考えると、自分の存在がなくなってしまえば、全てがなくなってしまうという考え方でもあると思います。

 このような例えは、今の世の中では危険な発想かと思いますが、ゲームのようなものにも思えます。他人は主人公である自分自身以外の登場人物で、主人公は意識のある現実の自分が操ります。他人には意識はありません。現世にある歴史や思想や現実にあるものなどにあたるのはゲームの設定であり、ゲーム内の他人やルールはその設定に沿って存在します。そして、主人公である自分が死んでしまえば全て終了。ほかの登場人物も世界も全て終わり、真っ暗な画面である。さらに、ある意味自分自身も誰か他人のゲームの登場人物の一人とも言えます。存在は知っていながら見た事も行った事もない場所、存在すら知らない他人は現実にはたくさんいます。一方ゲームの中でも出会わなかったままの登場人物や、行かないままで終わる場所、知らないままの事もあるでしょう。

 つまりは、この世の中で意志をもつ生命体として存在しているのは自分だけなのではないか?という事である。
 ここまで、口に出してしまえば、いっそのこと全ての存在にこの疑問をぶつけてみたいですね。映画みたいに、なんでわかった!?というような反応はされる事はなく、変人扱いという至極当然の扱いを受ける事になるとは思いますが。

 とまあ、仮に以上に基づいて申し上げるとしますと、当然地球は私一人のものであり、子孫も自分の意識の消滅と同時に消滅です。



 先に申し上げましたように、私自身はこのような考えに基づいて行動しているのではなく、たんなる妄想の域を脱しませんが、小さな事で言えば、ポイ捨てなどする地球に優しくない方々や、ひいては自己中心的考えによって殺人や戦争を巻き起こす方などは、このような、地球は自分一人のものという確信に基づいて行動しているのかもしれませんね。



 自身の妄想と現実世界の境界線がわからなくなり、行動することによって、自己中心的考えにて振る舞い、さらには病的とも思える事件に発展したりするのでしょうか…。

 自分をしっかり持ってないと、私自身もそのようになってしまうのであろうか、それともこのようなことを考える時点で、そういう人間になりきってしまっているのだろうか?これは我が人生において、天文学的数値に及ぶ数多くの不安要素のひとつである。
 約1ヶ月の永きにわたって繰り広げられていた熱戦にも終幕の時が訪れました。言わずと知れた、FIFAワールドカップ南アフリカ大会の事である。

 日本代表チームには、開幕前から様々な予想が飛び交っていましたが、セルジオ越後氏をはじめとした辛口サッカー解説者などからは、三戦全敗の予想もされておりました。それら大方の予想に反して選手達は期待以上の活躍ぶりで、期待以上の結果を残したと言えるのではないでしょうか。

 W杯は本大会よりも地区予選の方が、遥かに長期間に及び、場合によっては本大会よりも厳しいと表現される事もあります。相手が強いとか弱いとか、そういう問題ではないのです。

 風土や文化、気候もちがう他国での戦いも含め、各国W杯出場権をめぐって激しくしのぎを削るのである。そこにはスポーツとしてのサッカー、華麗で豪快で力強く、スペクタクル、ファンタジックなサッカーだけではなく、汚く、危険で、狡くて卑怯で、騙し合うようなサッカーもあります。国家の威信を懸けた戦いのように認識している国もあると聞きます。実際に、過去ホンジュラスとエルサルバドルの間で起こった戦争はW杯予選でのサッカーの試合が遺恨となっていると言われています。それだけではありません。約二年にも及ぶ地区予選の最中には、選手や監督、協会へのバッシングも度々起こります。想像を絶するプレッシャーの中で戦っているのでしょう。また違うチームの選手達が一堂に会す訳ですから、なんらかの蟠りなどもある事でしょう。それらの過酷な試練を乗り越えて、W杯を迎えているのです。きっと燃え尽きた選手もいる事でしょうね。

 今回のW杯では、欧州以外の開催地では、初めて欧州のチームが優勝を手にしました。アジアのチームが優勝するのは、まだまだ先の事になる事でしょうが、是非日本代表がその偉業を成し遂げて欲しいですね。Jリーグ発足以降、日本の成長スピードには目を見張るものがあるそうです。それを維持し続けられるとは限りませんが、また四年後カーニバルとサッカーの国ブラジルにて、その勇姿を見せてくれる事を期待しています。そしてまた痺れるような戦いを期待しています。


 全ての選手達、W杯に出られなかった選手も、予選で敗れた国の選手達も、無名な選手達も含めて、サッカーに関わる全ての人達一人ひとりが、この世界最大のスポーツイベントとも言われる、W杯を作り上げていると感じました。




 素晴らしい戦いをありがとう。

 それぞれの戦いは、既に始まっている事と思いますが、ひとまずはお疲れ様でした。
 先日、反捕鯨団体であるシーシェパードの構成員の人が、強制送還させられました。
 彼らの反捕鯨への思いは強く、非情なまでの信念でもってその意志を貫いているように思いますが、それがどのような理由によるものなのかは判りかねます。反捕鯨については、強く反対する人がいても不思議には思いませんし、国単位で干渉してくるとしてもおかしな事だとは思いません。


 あさはかながら私見を述べさせるせて頂きますが、彼らが洋上において活動の拠点にする船には、髑髏マークの旗がかかげられております。それは自然保護、環境保護、動物愛護的雰囲気の事を訴えている団体の船には似つかわしくない旗のように思います。
 髑髏マークの旗を掲げて船を走らせるという事は、海賊である事、攻撃の意志がある事を大々的に宣伝しながら存在している事になります。髑髏の旗にはそのような意味があるようですし、船乗りとしてそれを知らないという事はないでしょう。そういう事を世界的に発信しながら堂々と日本の船を攻撃し妨害する事について、また自らを正当化する事について、日本人をはじめ、ニュージーランドやオーストラリア、その他第三国はどのように受け止め、評価しているのでしょうか?反捕鯨についてではなく、髑髏の旗を掲げている事についてである。

 私の印象では、偏見かもしれないですが、髑髏マークがどんなに素晴らしい事を言っても、なんら説得力を見いだせませんし、それを求める事自体に無理があるように思えてなりません。そういう意味で、シーシェパードという団体が何を考えているのか理解できません。私の感覚では、自然保護、環境保護、動物愛護などの団体が髑髏マークを掲げていたら、その団体を支持する事はありません。そう思うのは私だけでしょうか?


 洋上での妨害行為を行うに当たっての警告の意味にすぎないのでしょうかね…。