お腹の具合がよろしくない。下痢気味である。おそらく昨晩に食べたラーメンのせいであろう。これだけであれば、ラーメン屋に行って"てめぇんとこのラーメン食って腹壊したじゃねぇか!どうしてくれんだよ?おぉう??"って言えばいいだけの話じゃないの?ってなりがちですが、そういう訳にもいかないのです。理由は2つありまして、一つは自分が怒鳴り込むような性格ではない事。もう一つはそれを承知の上で食べた事である。"わざわざ腹痛くなろうと思いながら金払ってラーメン食ってんのか!?"と言われそうですが、決してそうではないし、毎回必ずそうなるわけではありません。"じゃあ腹壊すかもしれないって思いながら食ったんか??"といわれれば、そうです。また腹痛くなるかもしれんなぁ…とは思いながら食ってます。金払って。

 じゃあ、"そこまで覚悟の上で食うとは、相当うまいんだろうな?"と言われると、一言でハイとは返事することはできません。その理由は2つあります。一つは、単に出身地福岡で慣れ親しんだ正統派の博多長浜ラーメンを出す、数少ない店の一つだから行っているだけだから。もう一つは、以前よりも味が落ちている気がしてならないから。

 博多ラーメンは大体麺の硬さが選べるのですが、硬さを選べると言っても茹でる時間の問題なので、硬ければ硬いほど生に近い状態な訳であって、必然的にお腹を壊す可能性は高くなります。にもかかわらす硬いのを頼むのには、理由が2つあります。一つは好みですね。麺自体の味わいがあるというか…。もう一つは食べてるうちにやわらかくなってくるから。

 どれだけの硬さかと申しますと、はりがねです。というか頼み方が、やわ(やわらかめ)→普通→かた(少し硬め)→バリかた(更に硬め)→はりがね(もっと硬い)と表現するように、店側から命じられているのです。自分が地元にいた時でもそのような事は一度たりともなかったのですが、そこはさすがは世界有数の先進国日本の首都、東京。例え、たかが麺の硬さを頼む時であっても、最先端技術でもって注文するわけである。茹で方はというと、さすがは世界に誇る皇室をもつ伝統国家日本の首都、東京。職人の勘と技術でもって、10秒にも満たない早技で麺を釜から引き上げて、はりがねの茹で上がりである。

 出てきた時の麺は、丼に入れた後、具材を盛り付ける間に、どうしても一つやわらかめにランクダウンして、はりがねがバリかたくらいになります。その後の替え玉のはりがねが、本格的に硬いのである。本領発揮、実力をいかんなく発揮し、その硬さを維持しているのである。

 以前その店には、非常に厳しい大将がいて(自分はその大将に注文を間違えられましたが)、客の前でも平気で叱りつけている様子を何度となく目にしましたが、ここ数年大将は全く見かけません。それもあるのか、偉そうな事を言うと、ここ数年はスープが薄いというか深みがないというか…。

 長く続く伝統の店には、例えば100年続く伝統のタレを継ぎ足し継ぎ足しして…などやっているところもあるようですが、とあるテレビ番組での検証の結果、その店では既に元祖のものはとっくになくなっていたようです。つまり、伝統のタレに継ぎ足すのが水だったとしたら、今は完全に水というような状態だそうです。味が良ければいいんですけどね。
 帰宅途中の地下鉄にて、このブログを書き込んでおりますが、これをしない時は何をしているかと言うと、大体何もしてないか、本を読んでいるかのどちらかである。

 暇つぶしにいいですよ、本は。自分が好んで読む本の中に、町田康という人の本がありますが、これらの本は、何というか、変わってるというか、変というか…。中身がない?意味が解らない?何が言いたいかわからない?ような本です。あくまで私見なので、他の方々からすると、非常に意味深い有り難い感動の物語だと言われるかもしれません。自分にとっては、意味は無く、中身も無く、何が言いたいかわからないとしても、面白い。それで十分。

 ただ文章を楽しむ、表現を楽しむ、物語の中で起こる現象を楽しむ。そこには、恋愛だとか青春だとか感動だとか社会問題、メッセージ、ましてや犯人の予想だとか面倒くさいものはありません。

 物語には必ずしも、意味や中身があり、何が言いたいかがわかるようにしてないといけない訳ではないと思います。いつもは躊躇われますが、たまにはそういう本をよみたくなるのです。

 毎回は問題ですが、たまには意味とか何とか考えなくてもいいじゃん。テキトーでいいじゃん。頑張らなくてもいいじゃん、今度がんばる時のために。…そんな事を考えてると同時に、そういう事を堂々と口に出して言うと、じゃあ、たまには給料なしでもいいじゃん。と経営者にいわれそうだなと思いました。それでは困るので、黙ってがんばるしかない。結局は"いいじゃん"ではすまされないのである。その現実から一時的に逃避するために、無意識に私が選んだのが町田康氏の本なのであろうか?

 書きながらの流れでこのような結論(?)に至っておりますが、あながち的外れでもないような気がしてます。
 毎日蒸し暑い日が続きますが、皆様日々いかがお過ごしでしょうか?

 正直申しまして私の場合、いかがお過ごしも何も、ただただ生活するのみでございます。まあ、自分でこういう事を言うのもなんですが、私みたいな人間こそ生きていても意味がないように思いますね、本当に。守るものもなく、欲しいものへの執着も弱く、特に失いたくないものもなく。そういう人間はボランティア活動でもすればいいのかもしれませんが、そこまでの気力もなく…。

 ただだからと言って、別に悲観的になってたり、現在絶望の淵に立っている訳ではないと自分では思ってますし、人間遅かれ早かれいつかはいやでも死ぬので、わざわざ積極的に死にたいなどとは、全くもって考えてはおりません。こんな状態は心身共に健康的ではなさそうだし、自分自身に対し、やりきれんなぁとは思ったりはしますが…。

 語り継がれるような特殊な人間の生涯というのは、本やなんかで見たりもできます。自分のような性格で、なんの取り柄もなく、人から見向きもされないこんな人間が流され続けた結果、どんな末路を辿るのか。身をもって体験してみようという興味はあるかもしれません。他人ごとと言われるかもしれませんが、いいんです。それで。私はそういう感じが好きなんです。なんというか、結構図々しいんです、私は。
 そうやって生きている人って、あんまりいないもんなんでしょうかね?

 表面上このような事を言いながらも、いざという時には人生というものに執着し、しがみつくような事になるのかもしれません。そんな時でも、どうか冷静に、客観的に自分を観察し、"死んだら死んだでしょうがない"みたいな事思ってたんじゃないの?って突っ込むくらいの余裕を持っていて欲しいね。そして、"死んだらしょうがない"と"生きてても意味がない"は違うだろっ→ん?同じか?どう違うんだ?って考え込んだりして。その位の余裕は欲しいな。期待してるよ。
 "拝啓この手紙~"っていう歌みたいな感じになってる。アンジェラアキだっけ?死にそうな時に読むバージョンだね。突っ込む余裕の前に、その手紙を読む余裕もないとね。