編集部のラウンジは、午後の光がゆっくり傾きはじめる時間だった。
大きな窓からは、冬の淡い日差しが差し込み、白いテーブルに柔らかい影を落としている。
ここは、ひかりが密かに好きな場所だった。人の声が遠く、空気が軽い。
「TPPって、結局なんだったんですかね」
若い同僚が、紙コップのコーヒーを両手で包みながら言った。
ひかりは、資料を閉じて顔を上げた。
彼女は編集者としては中堅に差し掛かり、
“説明する側”に立つことが増えた。
けれど、説明しすぎる癖があることも自覚している。
「うーん……一言で言うのは難しいけどね」
ひかりは、窓の外の光を一度見てから続けた。
「“誤解が積み重なると、国同士は遠くなる”って話かもしれない」
「誤解、ですか?」
「うん。たとえば……」
ひかりは、最近読んだ資料の一節を思い出した。
「“日本は猿真似だ”って言われたことがあるんですって。
でも、その人に向かって、こう言った人がいたの。
『日本は一国で、あなた方は多数国です』って」
同僚は目を瞬いた。
「どういう意味なんです?」
ひかりは、少しだけ肩をすくめた。
「ね、説明したくなるでしょう?」
そして、少し照れたように笑った。
「でも……たぶん、説明しきれないんです」
「しきれない?」
「うん。言葉にすると、どこかがこぼれる。
でも、その一言だけで、空気が変わったらしいんです」
ラウンジの窓辺に、夕方の光が少しだけ濃くなった。
ひかりは、その光の中で言葉を探すように視線を落とした。
「誤解って、説明すれば全部解けるわけじゃないんですよね。
でも、誠実な言葉は、誰かの心に残る。
……そういうことなのかもしれない」
同僚は静かに頷いた。
「なんか、分かる気がします」
ひかりは胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
説明しきれないことを、誰かが受け取ってくれる瞬間。
それは、言葉よりも確かな理解だった。 「でも、ひかりさんって、そういうの詳しいですよね」
同僚が言った。
ひかりは、少しだけ首を振った。
「詳しいというより……“言葉の裏側”に興味があるだけかな」
それは、ひかり自身の立ち位置をよく表していた。
編集者として、文章の表面よりも、その奥にある意図や背景を読むことに慣れている。
けれど、政治や外交のような大きな話題になると、
その“裏側”が一気に複雑になる。
「たとえば、TPPもそうだけど……」
ひかりは、窓の外に目を向けた。
ラウンジの外には、編集部の小さな庭が見える。
冬枯れの木々の向こうに、薄い空が広がっていた。
この場所は、ひかりにとって“呼吸ができる場所”だった。
「国同士って、誤解したまま進むことが多いんですよね。
でも、誤解を全部なくすのは無理で……」
同僚が頷く。
「だからこそ、あの言葉が響いたのかもしれない」
ひかりは、静かに続けた。
「『日本は一国で、あなた方は多数国です』って。
説明じゃなくて、“立ち位置”を示しただけなのに、
空気が変わったっていう話」
同僚は、少し考えるように視線を落とした。
「立ち位置……か」
「うん。立場を押しつけるんじゃなくて、
ただ“自分がどこに立っているか”を示すだけ。
それって、すごく誠実だと思うんです」
ひかりは、言いながら自分の胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
説明しようとすると息苦しくなる話題でも、
このラウンジの光の中なら、自然に言葉が出てくる。
「誤解はなくならないけど、
誠実な立ち位置は、誰かの心に残る。
……そういうことなんじゃないかな」
同僚は、ゆっくりと息を吐いた。
「ひかりさんって、やっぱりすごいですね」
ひかりは、慌てて手を振った。
「いやいや、すごくないよ。むしろ、説明しすぎる癖があって……」
同僚が笑った。
「でも、その“説明しすぎるところ”が、ひかりさんらしいです」
ひかりは、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
窓から差し込む光が、白いテーブルに柔らかく広がっていた。 「でも、立ち位置だけじゃ弱くないですか?」
同僚が急に前のめりになった。
「国際交渉って、もっと“理屈”で押すべきというか……。
相手の矛盾を突いて、論破して、優位に立つ……みたいな」
ひかりは、少しだけ目を瞬いた。
こういう“理論の波”は、編集部の男性陣に時々ある。
悪気はない。ただ、言葉を“武器”として使う癖があるのだ。
「うーん……」
ひかりは、紙コップのふちを指でなぞりながら言った。
「たしかに、理屈は大事だよ。でもね……」
窓からの光が、ひかりの白いスーツの青いストライプに柔らかく落ちた。
「理屈って、相手を動かすためのものじゃないんだよね。
“自分が正しい”って証明するためのものになりがちで」
同僚は少し黙った。
ひかりは続けた。
「でも、あの『日本は一国で、あなた方は多数国です』って言葉は、
相手を論破してないよね?
ただ、自分の立ち位置を静かに置いただけ」
「……たしかに」
「でしょ?」
ひかりは、少しだけ笑った。
「説明ってね、“相手が受け取れる形”にしないと意味がないの。
理屈で押すと、相手は身構えちゃうから」
同僚は、コーヒーを見つめながら言った。
「じゃあ……どうすればいいんです?」
ひかりは、少し考えてから言った。
「たとえばね。
“あなたは大勢の後ろに立ってるけど、私はひとりなんです”
って、そういう“景色”を見せること」
同僚は顔を上げた。
「景色……?」
「うん。理屈じゃなくて、景色。
相手が“ああ、そういう場所に立ってるんだ”って分かるように伝える。
それが、誤解をほどく一番の近道なんだと思う」
ラウンジの空気が、少しだけ柔らかくなった。
同僚は、ゆっくりと頷いた。
「……ひかりさんって、説明がうまいんですね」
ひかりは、慌てて手を振った。
「いやいや、うまくないよ。むしろ、説明しすぎる癖があって……」
同僚が笑った。
「でも、その“説明しすぎるところ”が、ひかりさんらしいです」
ひかりは、頬が少し熱くなるのを感じた。
窓からの光が、白いテーブルに静かに広がっていた。 「でも、景色だけじゃ弱いですよ」
同僚は、まだ理論の火を消しきれない様子だった。
「国際交渉って、もっと戦略的で……相手の論理を崩して……」
ひかりは、ふっと柔らかく笑った。
その笑みは、相手を否定しないまま、空気を少し変える力を持っていた。
「うん、分かるよ。そういう考え方も大事だよね」
ひかりは、まず相手の言葉を受け止めた。
「でもね……」
彼女は、白いスーツの袖を軽く整えながら続けた。
「論理って、相手を“動かす”ためのものじゃないんだよ。
相手を“固める”こともあるの」
同僚は、少しだけ眉を寄せた。
「固める……?」
「うん。たとえば、あなたが誰かに
“こういう理由であなたは間違ってます”って言ったら、
その人はどうすると思う?」
同僚は、少し考えてから言った。
「……反論しますね」
ひかりは、静かに頷いた。
「そう。人は、論理で押されると、心を閉じちゃうの。
でも、“景色”を見せると、心が動くことがある」
同僚は、息を飲んだように見えた。
ひかりは、言葉を選びながら続けた。
「『日本は一国で、あなた方は多数国です』って言葉は、
相手を論破してないよね。
ただ、“私はここに立っています”って示しただけ」
「……たしかに」
「でしょ?」
ひかりは、少しだけ肩をすくめた。
「論理よりも、立ち位置の方が伝わることってあるんだよ。
特に、誤解がテーマのときはね」
同僚は、しばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「……ひかりさんの説明って、なんか、すっと入ってきますね」
ひかりは、照れたように笑った。
「そんなことないよ。ただ、相手が受け取れる形にしてるだけ」
同僚は、少しだけ目を細めた。
「それが、すごいんですよ」
ひかりは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
窓からの光が、白いテーブルに静かに広がっていた。 「理屈って、便利なんですよね」
ひかりは、窓の外の光を見ながら言った。
「でも、理屈って、相手を“動かす”ためのものじゃなくて、
相手を“固める”こともあるんです」
同僚が首をかしげる。
「たとえば、職場でもそうですよね。
“あなたの案はここが間違ってる”って言われたら、
人はまず反論を考える。
でも、“私はこういう立場で見てるんです”って言われたら、
ちょっとだけ相手の景色を見ようとする」
ひかりは、白いスーツの青いストライプを指先で整えた。
「外交も、会社も、家庭も、全部同じなんです。
論破しても、関係は前に進まない。
でも、立ち位置を示すと、相手が動くことがある」
同僚は、少し驚いたように目を見開いた。
「たとえば、こんなふうに言うんです」
ひかりは、指先で空中に小さな円を描いた。
「“私はひとりでこの仕事を見てるけど、
あなたはチーム全体を見てるんですよね”」
「……それ、すごく柔らかいですね」
「でしょ?」
ひかりは、少し照れたように笑った。
「相手の立場を否定しないで、
自分の立ち位置を静かに置く。
それだけで、誤解ってほどけることがあるんです」
同僚は、ゆっくりと息を吐いた。
「……ひかりさんの言い方って、なんか、上品ですね」
ひかりは、首を振った。
「上品じゃないよ。ただね、
“相手が受け取れる形”にするだけ」
そして、少しだけ声を落とした。
「理屈は頭に届くけど、
景色は心に届くんです」 翌週の午後、ひかりがラウンジで資料を読んでいると、
同僚が少し照れたような顔で近づいてきた。
「ひかりさん、この前の話……ちょっと使ってみました」
ひかりは顔を上げた。
「え? どの話?」
「“景色を見せる”ってやつです」
同僚は、紙コップを両手で包みながら続けた。
「実は、営業の先輩と意見がぶつかってて……
いつもみたいに理屈で説明したら、やっぱり反発されて」
ひかりは、少し笑った。
「うん、ありそうだね」
「で、言ってみたんです。
“僕は現場の数字だけ見てますけど、
先輩はお客さん全体の流れを見てるんですよね”って」
ひかりの目が、少しだけ丸くなった。
「そしたら、先輩が急に笑って……
“そうなんだよ。分かってくれる人がいて嬉しい”って」
同僚は、少し照れたように視線を落とした。
「それから、話がすごくスムーズになって。
向こうも僕の意見をちゃんと聞いてくれて……
なんか、初めて“会話になった”って感じでした」
ひかりは、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「……よかったね」
同僚は、少し照れながら言った。
「ひかりさんの言葉、効きますね。
理屈じゃなくて、ちゃんと相手に届くんだなって」
ひかりは、首を振った。
「私の言葉じゃないよ。
あなたが、自分の言葉に変えたんだよ」
同僚は、少し考えてから、静かに頷いた。
「……そうかもしれません」
ひかりは、窓の外の光を見た。
冬の空は薄く、でもどこか優しかった。
“景色を見せる”という小さな工夫が、
誰かの誤解をほどき、関係を変える。
そのことが、ひかり自身の胸にも静かに響いていた。 同僚が席に戻ったあと、ラウンジには静けさが戻った。
ひかりは、開きかけていた資料を閉じ、しばらく窓の外を眺めた。
冬の光は薄いけれど、どこか優しい。
その光の中で、ひかりはふと胸の奥に小さなざわめきを感じた。
──私も、誤解されることがある。
そう思った瞬間、心のどこかが静かに動いた。
ひかりは、編集部で何度も経験してきた場面を思い出した。
説明しすぎて、相手を圧倒してしまったこと。
誠実に話しているつもりが、相手には“正しさの押しつけ”に見えたこと。
沈黙が怖くて、余計な言葉を重ねてしまったこと。
「……私も、理屈で固めてたのかもしれない」
ひかりは、紙コップを両手で包みながらつぶやいた。
相手の景色を見ようとせず、
自分の景色だけを丁寧に説明していた。
それは誠実さでもあるけれど、
同時に“誤解を生むやり方”でもあった。
「だから、誤解されるんだ……」
言葉にしてみると、不思議と胸が軽くなった。
ひかりは、白いスーツの青いストライプを指先で整えた。
その動作は、まるで自分の心の線を整えるようだった。
「景色を見せるって、相手のためだけじゃないんだね」
ひかりは、ゆっくりと息を吸った。
「自分のためでもあるんだ」
誤解されないために。
押しつけにならないために。
相手と同じ場所に立つために。
ひかりは、静かに微笑んだ。
窓からの光が、白いテーブルに柔らかく広がっていた。
その光の中で、ひかりは気づいた。
──私は、まだ変われる。
その気づきは、ひかりの胸に小さな光となって灯った。 同僚が去ったあと、ラウンジには再び静けさが戻った。
ひかりは、開きかけていた資料をそっと手に取った。
ページをめくると、あの言葉が目に入った。
──「日本は一国で、あなた方は多数国です」
ひかりは、指先でその行をなぞった。
まるで、紙の上に残った温度を確かめるように。
「……これって、まさに“景色”なんだ」
ひかりは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
この言葉は、相手を論破していない。
相手の矛盾を突いてもいない。
ただ、自分の立ち位置を静かに置いただけ。
でも、その一言で空気が変わった。
──景色は、心に届く。
ひかりは、今日の同僚との会話を思い出した。
彼が“景色を見せる”ことで、先輩との誤解がほどけたこと。
理屈ではなく、立ち位置を示したことで、関係が動いたこと。
「……同じだ」
ひかりは、資料を胸に抱えた。
秀夫さん(資料の人物)は、
理屈で戦わなかった。
正しさを押しつけなかった。
ただ、自分の立ち位置を静かに示した。
その姿勢が、相手の心を動かした。
「私も、こうありたい」
ひかりは、窓の外の冬空を見つめた。
薄い光が、白いテーブルに柔らかく広がっている。
誤解されることが怖くて、
説明しすぎてしまう自分。
でも──
景色を見せることで、
もっと優しく、もっと誠実に伝えられるかもしれない。
「……私も、変われる」
その言葉は、ひかり自身を励ますように響いた。
資料のページを閉じたとき、
ひかりの胸の奥には、
小さな光が確かに灯っていた。