『北の光を読むひと』 | 100年のブログ

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〈ひかり〉  
30代の女性編集者。言葉に頼りすぎて生きてきた自分に、どこか息苦しさを感じている。

 佐伯ひかりは、机の上に積まれた資料を前に、しばらくページを閉じられずにいた。
 そこには、派手さはないが、静かに深く生きてきた一人の人生が記されていた。

 * * *

 秀夫が若い頃、宣教師一家の家に通っていた。
 イギリス人の父、アメリカ人の母、そして十代の息子。
 家はいつも開かれていて、自然に迎え入れてくれた。

 息子とは、年齢差はあったが、上下はなかった。
    子ども扱いもしないし、構える必要もなかった。
    ただ、ふつうに話した。

 ある日の集まりで、アメリカ人の母親が言った。
    「Japan only imitates the West.」
    日本は西洋のまねばかりだ、と。

 数人の宣教師が頷いた。
    複数の欧米人が、ひとりの日本人を囲む空気だった。

    秀夫は静かに言った。
    「日本は一国で、あなた方は多数国です」

    部屋が静かになった。
    その日を境に、彼らの態度は変わった。 後日、イギリス人宣教師と二人で話す機会があった。

    「Japanese writing… it’s Chinese, isn’t it?」

    秀夫は静かに返した。
    「アルファベットの起源はイギリスですか?」

    宣教師は目を見開き、やがて頷いた。
    「I see… I didn’t understand that before.」

    * * *

    宣教師一家の息子との時間には、いくつかの場面が静かに残っている。

    ある日、海で釣りをしていたとき、落ちたのは秀夫の竿だった。
    少年が反射的に身を乗り出した。
    その瞬間、秀夫は彼と海のあいだにすっと入り、腕を押さえて止めた。
    「やめておけ」
    叱りもせず、大げさにもせず、ただ危険を避けた。

    少し離れたところで、母親ははがきを書いていた。
    その場面を見ていたわけではない。
    だから、その日のことは何も話さなかった。

    別の日、少年がふざけてフェイントのパンチを出した。
    秀夫は反射的に手刀で受けた。
    少年は思ったより痛かったらしく、顔をしかめた。

    後で母親は静かに言った。
    「息子が悪い」
    責める気配はなかった。そこには誠実さがあった。

    ひかりはその記述を読み、胸の奥が温かくなるのを感じた。 やがて、教会を変える時が来た。

    宣教師夫婦は驚いた。
    「Why…?」
    「ワタシタチ、ナニカ、マチガエマシタカ」

    秀夫は静かに言った。
    「家族に合う場所を選びたいだけです」

    少年は何も言わなかった。
    まだ事情を理解する年齢ではなかった。

    * * *

    母が養老院に入ってからも、秀夫は毎週土曜日に通った。
    説得しない。押しつけない。
    ただ、そこに座り、必要なことをして帰るだけだった。

    ある冬の日、母は窓の外を見ながら言った。
    「……私、イエス様を信じるよ」

    誰の手柄でもない。
    自由の中で生まれた信仰だった。 数年後、宣教師夫婦から手紙が届いた。
    「お母さんの受洗、おめでとうございます」

    人は終わらない。
    形を変えて続いていく。

    * * *

    ひかりは資料を閉じ、しばらく窓の外を見ていた。

    自分は、言葉で先回りし、誤解される前に説明し、
    沈黙が生まれると不安になり、
    距離ができると、それを埋めようとしてきた。

    “伝えなければ、分かってもらえない”
    そう思い込んで生きてきた。

    しかし、この人は違う。 必要なときだけ動き、
    必要のないときは黙っている。
    境界線を引くときも、争わない。
    人を導くときも、押しつけない。

    ただ、事実だけを置き、
    相手の自由を尊重し、
    結果を急がず、
    沈黙を恐れない。

    ひかりは胸の奥がざわつくのを感じた。
    それは、羨望と、少しの痛みが混ざった感情だった。

    ──私は、こんなふうに生きられない。

    そう思った瞬間、涙がひとつ落ちた。
    悔しさでも、悲しさでもない。
    自分の弱さを初めて正面から見た涙だった。

    秀夫の人生は、派手ではない。
    しかし、その静けさは、ひかりの心の奥に届いた。

    ひかりは、ゆっくりと息を吸った。
    胸の奥に、小さな光が灯っていた。

    ──静かに生きることは、弱さではない。
   ひとつの強さなのだと。

    その光は、秀夫の人生から受け取った、確かな光だった。