ミス馬高
馬高のもう一つの目玉はこの”ミス馬高”
土偶(馬高遺跡)
土偶(馬高遺跡)
三角とう土製品・土版・三角形土版(馬高遺跡)
三角土版(馬高遺跡)
土偶(南原遺跡)
鍔形土製品・土製耳飾り(中道遺跡)
馬高遺跡
縄文時代中期(約5500年前~4500年前)の大規模集落
信濃川西岸の丘陵上に立地している
馬高遺跡”北のムラ”
中期初め頃から北側から住居がつくられ、やがて中央部に範囲が広がって、環状の形となった
竪穴住居・貯蔵穴・墓穴・ゴミ捨て場などからなり、長期にわたり続いた
長方形の竪穴住居が、長軸がムラの中心である広場に向いて放射状にならんでいて、その直径は100mにもおよぶ
馬高遺跡”南のムラ”
中期末には”北のムラ”の規模は小さくなり、南方の”南のムラ”に住まいを移す
短期間に営まれたムラで、竪穴住居・掘立柱建物・貯蔵穴・墓穴が環状に配置
集落の北東には、高床式とみられる掘立柱建物が築かれた
三十稲場遺跡
一方、沢をはさんだ三十稲葉では、中期中頃から小さな村が北部につくられはじめ、後期に入ると大きくなり、やがてムラの中心を南側に移していく
縄文時代後期(約4500年前~3200年前)
馬高遺跡・三十稲場遺跡と併せて、馬高・三十稲場遺跡と一括して扱われることもある
三十稲場式土器は全体に爪で突いたような「刺突文」と呼ばれる文様が付けられ、また縄文時代には珍しい蓋形土器を作り、煮炊きに使用した深鉢形土器も蓋を受けることを意識して作られています。蓋形土器の内側にはオコゲが付着しているものもあり、単なる飾りでなく実際に使用されていたことが伺われます。
入り組んだモチーフを彫り込んだ岩版や翡翠や滑石を磨いた玉砥石なども出土しており、縄文人の精神性の豊かさが垣間見えます。また、深さ3mにも及ぶ巨大な穴も見つかっており、土器を作る原料である粘土の採掘坑ではないかと注目されています。
馬高遺跡”北のムラ”
暑さでちょっとばてていたので、馬高遺跡”北のムラ”だけをまわりました