市辺古墳(磐坂市辺押磐皇子御墓)
市辺押磐皇子は、履中天皇の第一皇子で、母は葦田宿禰(葛城襲津彦の子)の女の黒媛。
安康天皇3年8月、安康天皇が眉輪王によって暗殺されたが、天皇は生前、押磐皇子に王位を継承させ、後事を託そうとしていた。
かねてからこのことを恨んでいた大泊瀬皇子(後の雄略)は、10月に押磐皇子を近江の蚊屋野へ狩猟に誘い出し、「猪がいる」と偽って皇子を射殺した。
さらに、遺骸を抱いて嘆き悲しんだ舎人の佐伯部仲子をも殺して、皇子とともに同じ穴に埋め、陵を築かせなかったという。
子の億計・弘計(後の仁賢・顕宗)兄弟は播磨国赤石に逃れた。
清寧天皇3年、億計・弘計は宮中に迎えられて弟の弘計王が即位した(顕宗天皇)
顕宗天皇は置目老嫗の案内から亡父の遺骨の所在を知り得て、改めて陵を築いた。
ウィキペディアより要約
右にあるのは、一緒に殺された舎人の佐伯部仲子の墓。市辺押磐皇子と仲子の遺骨が頭骨を除いて区別出来なかったため、似せた2つの墓を造ったとされます。
木がない分こちらの方が目立つので、最初こちらが市辺押磐皇子の陵と間違えてしまいました💦