あいち朝日遺跡ミュージアム | 古墳んぽ~古墳と野の草を観察しながら散歩

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あいち朝日遺跡ミュージアム

 

2020年11月にできた、まだ3年目の新しい博物館です。クロスロードビジョンやロケーションジオラマなどがあって、今の博物館てすごいですね。

 

 

 

 

朝日遺跡

 

縄文時代から江戸時代にかけての複合遺跡で、弥生時代中期になると飛躍的に大きな集落へと発展した。

 

 

 

 

朝日遺跡クロニクル


縄文時代

 

縄文中期末の土器、晩期前半の土器片が出土。

 

後期前葉にドングリ貯蔵穴がつくられていた。






弥生時代・前期


谷の南には、貝殻山貝塚・二反地貝塚・検見塚などが点在。

 

初期は径150mほどの環濠集落で、西日本から新しい文化を伝えた遠賀川式土器を使用する人々が暮らす。

 

 

谷の北には、環濠を持たず、縄文時代の伝統を引き継ぐ条痕文系土器を使用する人々が暮らす。

 

 

 

 

 


弥生時代中期前葉~中葉

 

集落が大きく広がり、南北に居住域、東に葛城、西に墓域という配置が定まった。

 

 

 

 

南北居住域とも大溝で外縁が区画され、北居住域の南側には柵・逆茂木・乱杭など防衛施設が築かれた。

 

 

東葛城には大小の方形周溝墓がつくられた。

 

ほとんどが四隅切れでかつ中心埋葬が木棺1基で小口板のピットを残す例が多く、土坑墓や土器棺墓はほとんど伴わない。

 

 

西墓域では、小規模なものやA4型以外の平面形が目立ち、墓域の一角には土坑墓群や土器棺墓も伴う。

 

 

集落は、玉・土器・石器・木製品など、物づくりと交易の拠点となった。

 

 

 

 



弥生時代中期後葉

 

環濠が見られなくなり、居住区の区画が不明瞭に。

 

竪穴建物は円形が消滅してすべて方形・長方形・胴張り長方形になる。

 

 

東墓域に人々が住み始め、それ以前の方形周溝墓を壊して新たに方形周溝墓を造営。

 

方形周溝墓は四隅切れが消えて一か所切れとなり、土器棺を含む複数の埋葬施設を伴うようになる。

 

 

 

中央の谷には須永厚く堆積、気候の変化により頻繁に洪水が起こったとするデータもある。

 





弥生時代・後期


南北居住域に再び環濠がつくられ、墓域は南北の環濠集落それぞれを囲むように営まれる。

 

南居住域の環濠南縁には銅鐸が埋納された。

 

北居住域の東には水路にヤナ遺構が設置されていた。
 

 

 

 

 

長々と朝日遺跡のクロニクルを紹介しました。が、一言でいえば「朝日遺跡ってすごい!」ってことですね。

 

 

 

 

 

 

”ガイドムラ人”と呼ばれるボランティアさんにガイドしていただきました。
 

 

 

 

円窓付土器

 

口縁や頸部に刺突文や数条の沈線をめぐらせるものもあるが、全般的に装飾的な文様は少ない。

 

尾張地域を中心に分布しているが、その大半は朝日遺跡で出土したものである。

 

弥生時代中期後葉の墓域とその周辺から出土することが多く、居住域で見つかることは少ない。


 また、焼成後に穿孔されるものがあること、屋外に放置され風雨にさらされていたことを示す「風化痕」がみられるなど、墓に供えられていた土器と共通する特徴が認められ、墓域での祭祀に用いられた土器と考えられている。

 

 

 

 

 

パレス・スタイル土器

 

弥生時代後期の尾張地方を代表する赤い土器。

 

 

 

 

白い部分にのみ櫛描きや刺突による文様が描かれ、それ以外の部分が赤く塗られています。

 

この土器は口の内側も赤く塗られていますが、その奥は塗られていないそうです。見える部分だけ赤く塗ったのでしょうとのことでした。

 

 

 

 

 

 

玉作り工具

 

①施溝具②玉と石③玉錐④はずみ車

 

 

 

 

 

ガラス小玉

 

 

 

 

ガラス小玉・赤彩土器

 

口縁に半分に割れたガラス小玉が埋め込まれている

 

近くに同じようなくぼみがあることから、本来は2つに割れたガラス玉がついになって埋められていた

 

 

 

 

右が本物、左が私が後から書き加えたものです。

 

 

 

後円部の三分の一が割れていて、その割れた部分はちょうどガラス玉が入った部分の対角線上にあります。

 

もしかしたら、その割れた部分にも同じようにガラス玉が埋め込まれていたかもしれませんね~🎵

 

 

 

 

 

 


銅鐸


高さ46.5cm・幅26.3cm

 

文様は4区の袈裟襷文と鋸歯文・同心円文からなっている。


弥生時代中期末から後期初頭に製作されたと考えられ、

 

小型の”鳴らす”銅鐸から大型の”見る”銅鐸へと変化する中間に位置づけられている。

 

 

 

 


巴形銅器

 

弥生後期から古墳前期にかけてつくられた青銅性金具。

 

スイジガイという貝を模したとされ、魔よけの意味があった。

 

 

 

 

 

土製品

 

 

 

 

 

異形土製品

 

左上:女性器形で、溝に小さな石が埋め込まれている

 

①絵画記号土器:人物 

 

 

 

 

 

 

絵画記号土器

 

②③鹿 

 

④記号

 

 

 

 

 

銅鐸形土製品

 


 

 

貝輪形土製品

 

 

 

 

装飾付鉢

 

口縁外面に文様が彫刻され、表面にはわずかに赤彩の痕跡が残っている。

 

 

 

 

木製品

 

 

 

 

 

堅櫛

 

10本の細い竹板を折り曲げ、屈曲部と両端を樹皮紐で縛っている。

 

全体に赤彩が施されている。

 

 

 

 

 

 

垂飾

 

 

 

 

 

貝輪

 

 

”ガイドムラ人”さん「実は、2021年に千葉から忍澤さんをお呼びして講演会を企画していたんですが、千葉でコロナ緊急事態宣言が出されてしまって・・・」

 

私「え!?今これを見て、私も忍澤先生の話をしようと思ってたんですよ!」

 

 

なんだか心を読まれたようです(笑)ガイドをしていただきながら、私が千葉から来たこと・最近市原ミュージアムができたことを話していたので、貝輪を見て思い出してくれたのでした。

 

 

”貝”といえば”忍澤成視”。業界(?)では有名な方だと思います。「房総の縄文大貝塚―西広貝塚―」シリーズ遺跡を学ぶ80(新泉社)の著者です。

 

私のブログにも何回か登場しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

愛知に来て、忍澤先生の名前が出てくるとは・・・びっくりでした。