佐倉古道は八幡神社から宝泉寺と続いていました。昨日の続きになります。
途中、縁結地蔵がありました。この大きなお地蔵さんは、名前の通り縁結びの仏さまで、昔は嫁・婿探しで遠くからも参詣者が着ていたそうです。
このお地蔵様の下は古墳だそうです。八幡神社の参道沿いには、古墳がいくつかあるそうです。
宝泉寺
1865年に火災で、鐘楼と山門を残してことごとく消失
しかし、当時の割元名主・千脇治郎右衛門が預かっていた曼荼羅と、土地寄進状だけが残った
出てきました「千脇治郎右衛門」!
天保7~8年 全国的に凶作飢饉がおこった。
領主は年貢を増やし、農民から収奪強化をめざした。
脇治郎右衛門は代官の不正を領主に訴え、それがきっかけで百姓一揆が起こった。
そして農民側の要求が全面的に実現し、
治郎右衛門を始め総代のものは残らず村へ帰ることができた。
焼け残った山門です。山門は御茶屋御殿から移築されました。このすぐ下には・・・
100段の階段がありました!
道路元標と道標
道標
正面:川崎千葉道
右:右道小間子山田台方面
道路元標
明治9年、県から
役所に近い辻に道路元標をたてるように布告があった
交通費の起点が主な目的であった
昔、この反対側に役所があったそうです。今は移転し、普通のおうちが建っています。屋号は「やくしょ」だそうです(笑)
道標に書いてあった川崎方面に進むと、鹿島川にぶつかりました。橋の手前には川供養塔がありました。
川供養塔
かつては、亡くなった人の着物を川淵で洗ったり焼いたりして、霊が迷わぬように供養をした
家で飼われた動物の供養もここで行われた
今回案内してくださった方も、ここで着物を洗ったことがあるそうです。
稲荷神社
ここにはちょっと珍しいものがありました。書かない方がいいと思いましたので、書かないことにしますねm(__)m
境内にはこの辺りで一番大きな杉の木があります。
道祖神
この辺りが、昔の川崎郷の出入り口。
コンクリートの覆屋で保護されています。この覆屋、ちょっとしたエピソードを教えてもらいました。
道祖神のすぐ後ろには立派なケヤキがあった。これを売ってくれと業者に言われたが、断った。
その後、台風でケヤキが倒れてしまった。この地域の役員や神職で話し合って、ケヤキを売ることにした。
その時の代金で、この覆屋を作り、稲荷神社の補修をした。
お稲荷さんと道祖神さんがそうなるように導いたのかしら?
道標
正面:東 富田 古泉 白井村道
右側:実業青年会創立二十五周年記念
左側:南 宮田 川井野呂道
裏面:川嵩 上下泉 弥冨村
骨神様
地元では歯痛の神様と呼ばれている
明治26年に古墳を崩して開墾した際に出土した、石棺の一部が祀られている
材質は日立の水成岩
一尺五寸くらいの直刀・若干の人骨・飾り物
これらは眞光寺で保管されていたが、昭和37年の火災で焼失
民家の裏にあるので、見学はできませんでした(泣)
大六天神社
祭神:面足尊・惶根尊の夫婦神
この神さまは木の繊維で布を織る神ともいわれるため、木を伐ることを嫌います。そのせいか、狭い境内ですが大木が多かったです。
左:今の道、右:佐倉古道
こうやって古い道は無くなっていくんですね(泣)
「ここ、古墳かも?っていわれてるよ」
「権現堂古墳はこの辺りらしい」
「宮田遺跡はここらへん」
最初に古墳に興味があるとお伝えしておいたので、時間が足りなくなったら端折ってしまおうと思っていたであろう古墳や遺跡も教えてくれました。
この時点で1時間も時間を押していたのです。すみませんね~、皆さん💦
火消神様
祭神:埴山姫命
埴山姫命が火消しかあ。
馬頭観音
この先は126号線・東金街道です。
東金街道沿いの千葉市泉市民センターをバスで出発。谷当バス停から約10kmの佐倉古道を歩きました。22.000歩だったそうですよ!