千葉県には城下町佐倉から千葉市寒川港を結ぶ佐倉街道があります。年貢米を運ぶために整備された道です。
先日、千葉市の郷土史講座に参加し、佐倉街道よりももっと古い「佐倉古道」を歩きました。
千葉市泉市民センターからコミュニティーバスに乗り、千葉市若葉区谷当町へ。
秩父供養塔
「秩父三十四番観世音供養塔 大正二年十二月」と正面に刻まれ、右側には「内田塩古道」、左側には「千葉街道」、裏面には「坂戸 馬渡佐倉之道」と刻まれています。
鹿島川
鹿島川は、千葉市昭和の森公園を水源とし北流、印旛沼へと注ぎます。
この川を渡ると佐倉市内田となり、今回の講座「佐倉古道を歩く」の出発点に入りました。
道祖神
しばらく畑の広がる山道をあるきました。
開けた道から林の中へ。尾根道を行きました。
道しるべ
分かれ道には道しるべ。本来ここは十字路だそうですが、1つの道は誰も通らなくなり、消えてしまったそうです。
二又に分かれた道。左の切通しの狭い坂を下りていきました。
落ちていた枝をひろって、杖代わりにする方もいらっしゃいました。足元をしっかり見て歩かないと、転んでしまいそうでした。
坂を下りきると開けた場所に出ました。田んぼの間にあぜ道とはいえないような道が先の山まで続いています。
これは、御成街道を造成の際、木材運搬に造った「堤」。橋の代わりに「堤」を造ったそうです。
坂を木材を担いで下りてこの堤を通って、向こうの尾根道に待っている馬車に積み替えたそうですよ。
今下りて来た坂を振り返ったのですが、坂が見えない💦 きっと人足さんたちは大変難儀したでしょう。
さらに進むと、また分かれ道に。左は人用、右は馬車道。
サクラの木の根元には道祖神。ここが下泉の出入り口になります。
この辺りには御手野古墳群があります。前方後円墳2基・円墳7基あるようです。
大部分は森の中。昭和49年に発見され、ほとんど未調査だそうです。
さらに進むと、今度は逆に2つの道が合流している場所に馬頭観音が祀られていました。左が馬車道(今来た道)、右が人用の道です。
この馬車道は軽便鉄道が走っていたそうです。
大正2年、千葉鉄道連隊が千葉・八街・三里塚まで大演習線を敷設
線路幅600mm
ドイツ製の双合式機関車
貨物車・客車(定員7~8名)
一般の人も乗ることができましたが、ケガしても責任はとらない・脱線したら協力するという条件があったそうです。線路幅は600mm!なので、よく脱線をしたようですね。
この坂道、元は切通しだったそうです。
道路の材質が2つに分かれているのがわかりますか?左側が軽便鉄道跡、後に右側の崖を削って道幅が拡張されたそうです。
尾根道を出ると、田んぼが広がっていました。後ろを振りむくと、先ほどの御手野古墳群の森が見えました。
道祖神
こちらが反対側の下泉の出入り口になります。
淡島神社
祭神:少彦名尊
下総の二大淡島といわれ、かつては水商売の信者が大勢訪れた
長屋門や蔵のある家が多く残っていました。特にこの長屋門が豪華でした。
道祖神
上泉村の出入り口
八幡神社
祭神:誉田別尊
元々上泉は白幡神社・下泉は山王権現を祀っていたが、
明治の終わりに合祀された
狛犬1
灯篭には寄進者である「千脇治郎右衛門」の名が刻まれています。鳥居も治郎右衛門が寄贈しました。
この「千脇治郎右衛門」の話はまた明日・・・