私の父親 育て編 | がんナースのおし(も)ごと

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検診では見つからなかった進行浸潤がん(子宮腺扁平上皮がん)と、検診で見つかった早期大腸がん。そんな2つのがん経験者ナースの、日常や生き方を綴っています。


出生後すぐに父親を亡くした私

保育園で“父の日”に描いた似顔絵。
父を知らぬ私は、チューリップの絵を描いていたというチューリップ赤チューリップ紫チューリップピンク
それが不憫でならなかった汗汗
と、母 まちこは話す。

で、紹介された新父!!!!!!!!!
『今日からお父さんよ』
新父から、パイナップルの飴をもらった。
3歳のとき。今でも鮮明に覚えている

そこから私のおしん生活は始まった。

とにかく厳しかった
今なら虐待問題に発展してたかも知れない。
いや、それは言いすぎた

食事時、食べるのが遅い私に
『もっと美味しそうに食べんかぃ‼』
お箸が飛んできた
『お前と食べたらまずくなる!』
暴言を吐かれた

・風呂入る準備が遅い。
21時以降にTV?子どもは寝る時間や!
ビンタが飛んだ

私の唯一の楽しみのピアノを弾くと『うるさい!』と怒鳴られた

商売をしていた継父と母。
当時小学生だった私は、
従業員用のお茶だし準備。
食器洗い。
風呂洗い。
掃除。
お米とぎ。
毎日こなしたガーン
それでも『この役立たず!』と怒鳴られた。

毎年膿が出るほどの、こっぴどいしもやけに悩まされてた私パー
医師の指示で、軟骨塗布の上に軍手をして学校に通う。
夜は膿でくっつき、軍手が脱げなかった。
それでもナイロン手袋をはき、上記をこなした。

この話を旦那さんにすると、いつも『湿っぽい話、やめてくれー』と言われる。

そんな中で私は、この継父にかすかなる復讐をしていた
この継父、何故か、つるっパゲだった。年中カツラor帽子を装着していた。
車に乗ったときは
ヅラが飛ぶから
と、窓あけ禁止だった。

押入れに隠されてたヅラ(2パターンあった)は、
クリスマス用ブーツに被されてた。
これを私は腹立ったとき、床や壁に投げつけていた
おかげで?私はソフトボール投げの成績がよく、学校から代表で出場するほどになった(笑)

小学生の分際で、家出も何度か考えた。
用意しているなか、母まちこに注意された一言。
『あんた、冬やのに、そのカバン、プール用やで!』
そんなやり取りで断念したこと数回。

結局母は離婚したハートブレイク

でも私は、何故かそんな継父を心から憎めなかった。
ビンタをされても鼻血が出たことはない。当たり前?
お尻も何度もぶたれたが、青アザになったことはない。
体格のよかった継父。きっと手加減してくれてたのだろう・・・。

それに私より、実子である息子(後に出来た私の弟)の方が、どえらい体罰?をうけていた

別れて20年ほど経ってから、一度私の子ども達を連れて、継父に会いに行った。
継父は、すごくすごく喜んでくれた
虫の知らせだったのか、その後間もなく、継父は体調を崩し、他界した

他界してから母 まちこから聞いた話
『あのお父さんな、結婚するとき、私はあんたをおばあちゃんに託して連れて行かないつもりやったんやけど、あのお父さんが、子どもは母親の元で育てるべき!絶対に連れておいで!て言うてくれたんや。
だから私はあんたを連れ子として連れて行ったんや。』

そうやったんや
お父さん、有難う

自分の実子じゃないのに、育ててくれて有難う。

てかな、お母さん
私がチューリップの絵描いて不憫に思って再婚したんちゃうん

話が違うやないかーぃ

やっぱ母は只者でない