昨日の続きです。
「愛される」をあきらめる、とはどういうことかというと、「愛の定義を手放す」ということになる。
私たちは、
「母はとても苦労した。それは私を養うためだ。だから私は愛されている。」
とつい自分に言い聞かせてしまう。
「自分がどう愛されたかったのか」
は忘れたふりをして、
「~してもらえたのだから、
私は愛されていた」
と愛を定義して納得しようとする。
「あなたにとっての本物の愛の定義を教えて下さい」と聞いて返ってきた答えをよくよく広げて眺めてみると、
それがその人の心の傷(どのように愛されなかったのか)を表していたりする。
愛されていなかった、望むような形の愛ではなかったと気づきたくないから、愛を定義せずにいられない。
だから、
私たちの中にある、一人ひとりの「愛の定義」を手放すということは、「望むようには愛されなかったことを受け入れる」ということになる。
「お母さんはとても苦労人で、私たちのことを必死に育てて仕事もして、不自由なく過ごさせてくれた、すごい人なんです」
と誇らしげに語るクライアントさんが、ある日
「本当はただ笑っていてほしかった。何にもなくてもいいからイライラしないでほしかった。私がいなければお母さんは苦労しなかったという気持ちでいつも苦しかった。負担だった。それは私の欲しい愛ではなかった。」
と泣き崩れる。
愛されたかった、という幼いころの願いがもう叶わないことを認めると、どうしようもなく虚しくて、悲しくて、人生がすべて更地に戻ったような気がする。
でも、そうやって「愛されたかった」という気持ちと向き合えた時、過去のもう手に入らない「あの瞬間の愛」を追い求めてさまよう必要がなくなる。
これまでの迷いに終止符がうたれて、
その先に、新しい自分が立っている。
これまでのすべてのクライアントさんがそうであったように、これから来る人たちもまた、そうだろうと思っているんです。
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