死の境界線は誰にも見えない | 仙台駅前にあるカウンセリングルーム まきび

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「本当に死にたい人は死にたいと言わない」

「本当につらい人はつらいと言えない」

 

そんなことはありません。

でも、たまに聞きますよね。

 

今日は「死ぬ」という言葉がたくさん出てくるので、心が引っ張られやすい方は読まずに閉じてくださいね。

 

 

死ぬとか死なないとか、他人の死に対しても自分の死に対しても、人は勝手にいろいろなことを言ってしまいます。

 

でも、誰も「死との境界線」を知りません。

 

身体の事なら、病院に行けばわかることもあるでしょうが、

精神的な部分から来る死というのは目に見えにくいものです。

 

少しずつ深くなっていく水の中を歩いても、どこまでが安全でどこからが危険なのか明確には分からないのと同じように、どこに死の境界線があるのか、誰にも分かりません。

 

 

何にも言わずにいなくなってしまう人もいれば、「死にた~い」と毎日言っていて、ある日本当にいなくなってしまう人もいます。

 

「言ったか、言わないか」

それは判断材料のほんの1部に過ぎず、しかもフェイクかもしれません。

 

そもそも自分でも死の境界線が分からないのですから、他人に分かるはずもないのです。

 

 

「死にたい」と口にする人は、死ぬことを想像し死んだ後を思い描くことで、安らぎを得ていることがあります。

 

生きることがとても苦しい人にとっては、心の中で何度も死ぬことが、生き延びるための1日分くらいの糧になったりするものです。

 

だから

死ぬことを想像することと、実際に死ぬことの間に、私はそこまで大きな差があるとは思っていません。

「死にたい」と言うたびに、その人は心の中で本当に少し死んでいるのでしょう。

 

もっとも、生きるのがつらい人にとっては、生きることと死ぬことの間にも大きな差はないのかもしれませんが。

 

 

死にたい、消えたいと思う時、

自分が少しずつ「足のつかない場所」に行き始めていないかどうか、死との境界線を知らないうちに超えていないかどうか、ぜひ足元を気にしてください。

 

人が心から死んでいくときは、急に死んだりはしません。

ゆっくり少しずつ死んでいくからこそ、無理がきく気がして限界まで頑張りすぎてしまいます。

 

しかし、誰にも精神的な死の境界線は見えません。

誰にも見えないからこそ、自分でSOSを出せる位の余裕があるうちに引き上げなければならないのです。

 

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