私達の人生には、「立ち止まる時間」というものがあまり用意されていません。
だからついつい、人は抱えきれない痛みを置いて行ってしまう。
「そんな大きなものを抱えて歩けない」と分かっているからです。
子供時代の勉強机を触っていると、
引き出しの奥にしまい続けた痛みがあることが分かります。
どうしてあの子はあんなことを言うんだろう
どうして僕はうまく出来ないんだろう
どうしてお母さんは毎日泣いてるんだろう
分からないままどんどん傷ついて、
それを感情にするための言葉もまだ知らない。
気持ちが整理できないまま、あっという間に次の朝がやってきます。
朝になったらまた学校に行かなければなりません。だから引き出しの中にそっとしまい込んで痛みを隠します。
勉強机以外の場所にも、痛みが隠されています。
私達は「節目」を迎えるごとに、何か一つ道を選ばなければなりません。
頭の中がごちゃごちゃしていても、知らないことばかりでも、お構いなしに新しい世界へ放り出されます。
休みたいのに、立ち止まりたいのに、またすぐ朝が来てしまう。
そういう時、私達は泣き叫んでいる痛みをそっと、階段の一番下に置いてしまいます。
階段を上がれば上がるほど、泣き叫ぶ痛みは遠くなってほっとするのに、いつ振り返ってもその姿が完全に見えなくなることがありません。
立ち止まるべきタイミングを誰も教えてはくれないし、
立ち止まる時間を誰かが与えてくれるわけでもない。
だからそうやって誰しもが、持て余した痛みのやり場に困っては、部屋のあちこちや道端や学校のロッカーの中に痛みをしまうことで生きてきました。
でも、
このままでいいのだろうか。
「このまま生きていく」でいいのだろうか。
生きるためにしまい込んだ悲しみも、私の一部ではなかったのか。
「生きてるだけでえらい」とつぶやくと、心の中が「違う」と言う。
生きてるだけでえらい、そんなのは当たり前の大前提だ。
ごまかしを述べて生きながらえることにも、すでに私の胸は痛んでいる。
あの日私はつらかった。
一人で生きねばならなくて怖かった。
お母さんに笑っていて欲しかった。
向き合ってくれる人がいなかった。
机の引き出しの中で、階段の一番下で、ずっと泣いている私がいる。
私の未来のために、誰があの日の私に立ち止まり、私のことを受け取りに行けるのだろう。
痛みを感じない気になることも、結局「隠している」ことと同じなら、私は次の人生に進みたい。
追いつけないスピードで毎日が過ぎていく中にも、必ず私達には再起の気持ちが起こる瞬間があります。
立ち止まるのは今なのではないかと目が明く瞬間が訪れます。
その瞬間を逃さなければ、私達はいつでも変わっていける。
ひとつしかないと思っていた道が幾重にも分かれる様を眺めて、一緒に笑える瞬間を待っています。
*このブログは毎日19時に更新されます
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